津軽歴史探訪、御城印の旅。
種里城跡の特徴
御城印を集める人に最適な城跡です。
津軽の歴史を深く感じられる貴重なスポットです。
土曜、日曜、祝日のみ営業で特別感があります。
南部氏、津軽氏史跡。津軽藩発祥の地。2020年10月17日来訪。種里城は、安藤氏を追って手に入れた津軽地方を守備する為に、安東氏の抑えとして、南部信時が、南部久慈氏一族の南部光信を、津軽西浜に配置した城。背景としては、1443年、南部義政により、十三湊から蝦夷に追われた安藤康季が、息子義季と共に、1445年、津軽西浜に上陸、引根城を拠点に南部氏に対抗した事(康季の病没、更に1453年に義季が南部氏との戦いに敗れ、自害)や、南部氏の庇護下にあった安藤政季(師季)が蝦夷に逃れ、その後、湊安東氏惟季の誘いに応じて、蝦夷から男鹿に渡り、南部氏に従っていた国人葛西秀清を滅ぼし檜山城を拠点とし、津軽地方回復を図った事(政季は1488年に家臣の謀反により自死)等、不穏な情勢下にあり、また日本海側の制海権は安東氏が握ったままの状態であった為、南部氏の支配は盤石ではなかった。光信が種里城を築いたのは、1491年のことであるが、安東政季(師季)の子、忠季により檜山城の修築が完成したのも、この頃で、種里城はまさに安東氏との戦いの最前線でした。光信は種里城周辺の豪族を攻略し、安東氏の侵攻を退けて赤石川沿いに領地を拡大、津軽平野に進出すると、1502年、大浦城を築き、養子盛信を与えたが、盛信が跡を継ぎ、大浦城が本拠地となった後も、光信自身は種里城に留まり続け、安東氏に対峙し続けた。1526年、光信は病床で、「甲冑を着せた立ち姿で東南に向けて埋葬せよ」と遺言し、津軽平定を願い、67歳で死去した。光信から5代目の大浦為信が、南部氏から独立し津軽藩を立てた事から、始祖光信の居城である種里城は、津軽藩発祥の地とされ、平成14年に、国史跡に指定された。城跡自体は、赤石川西岸の小高い丘陵地に築かれ、城趾には「光信公の館」という資料館が建てられ、発掘された資料等が展示され、本丸に建てられていた館跡が平面復元されている。西側の谷へ降りていくと、光信の廟所と共に、光信の下で合戦で活躍し、光信に従い殉死した家臣奈良主水貞親の廟所がある。
津軽藩の始まりの地。歴史を堪能できます。開館は週末と祝日です。ご注意。
5月21日に訪問しました。牡丹はそんなに咲いてなかったです牡丹は期待しない方が良いです有料の館内は歴史に興味を持つ方は楽しいと思います。歴史が苦手な私には説明が難し過ぎて理解するのに時間が掛かりました。城跡と聞いてたので実在の間取りを見て切なくなりました。鰺ヶ沢の山の中で大変な生活をされていたのだろう感じました。複雑な内容なので座りながら資料を読みたかったです。カメムシが資料の中を徘徊してましたので面白かったです。霊廟は新しくなってました駐車場から坂道を歩くので運動になります。
御城印を集めているので、そのご縁でこちらの城跡へ。この館を建てた経緯やこのお城の歴史がわかりやすく展示されています。
2021年5月30日に見学しました。南部下久慈から大浦光信が、ここ種里城に入ったのは、延徳3年1491年のことだそうです。一説に安東氏の侵攻を抑えるために入部したと言われています。文亀2年1502年に大浦城を築城し、息子の大浦盛信を城主にすえ、本人は、種里城主として安東氏と対峙しました。大永6年1526年にこの地で没しています。光信から5代目に当たる大浦為信が、南部氏から独立し、津軽氏初代となりました。そのため、光信を津軽氏の始祖と呼んでいます。
土曜、日曜、祝日のみ営業でした。
津軽のの歴史を感じられます。
| 名前 |
種里城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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駐車場から少し登り坂を登った所にあります❗️入り口には杖が準備されていました😃