鶴岡八幡宮すぐ近く、静寂の石碑。
二十五坊旧蹟碑の特徴
鶴岡八幡宮の西側、巨福呂坂へ向かう途中に位置する場所です。
石碑のみのシンプルな史跡で、歴史を感じられます。
かつて僧侶が住んでいた住居坊の跡地に該当します。
二十五坊とは鶴岡八幡宮寺(八幡宮寺時代)における、他寺院で言うところの「塔頭」にあたる。詳しい成り立ちや概要は複雑で、自分でも整理出来ていない為、説明は控えさせて頂くが、昭和39年この地域で大規模な宅地造成が行われようとしたとき、貴重な史跡や緑地を守る市民運動が繰り広げられ「御谷(おやつ)騒動」と呼ばれました。御谷とは二十五坊のあった谷戸の名称で、この「騒動」をきっかけとし古都保存法が制定される事となりました。現在は金網のフェンスで区切られた単なる空き地で「史跡保存」と言うよりは「緑地保護」に重きを置かれた印象だ。
90.二十五坊旧蹟アクセス:鶴岡八幡宮の西側の道を巨福呂坂へ向かう途中、、右側にある鶴岡八幡宮の駐車場入口をすぎると石碑があります。西北の地域一帯を御谷(おやつ)といい、石碑左側の住宅地への小道を進むと、二十五坊の跡がのこされています。また、この小道の東側に発掘調査をした解説パネルなどがあります。・源頼朝によって建立された鶴岡八幡宮は、正しくは「鶴岡八幡宮寺」という神仏混淆の宗教施設であった。その社役を務める僧侶である供僧が、八幡宮の北西に設けた二十五の住坊およびその住持職(しき)の総称を鶴岡二十五坊という。・鎌倉幕府の滅亡した後、衰退著しく、維新後の1868年(明治元年)神仏分離令(廃仏毀釈)によって八幡宮寺は、不浄とされた寺院を廃止して神道のみの八幡宮になった。そのため供僧は還俗し、坊はすべて廃絶した。供僧の葬儀は、境内で葬儀・荼毘・埋葬できなかった。浄光明寺に墓地があります(墓石には、鳥居の彫込みがあります)。「二十五坊旧蹟」碑には、下記のような意味の言葉が刻まれています。「この地は頼朝の時代以来、八幡宮の供僧の僧舎である二十五坊と別当坊が置かれた所である。かの別当公暁が、実朝の首を手に潜んだ(公暁の)後見人の備中阿闍利の邸宅もまたこの地にあった。応永年間(1394~1427)に院宣によって坊の称は、院と改められた。戦国の世に至って鎌倉管領が衰微するとともに各院も次第に廃絶し、天正(1573~1592)の末には僅か七院を残すのみとなった。文禄年間(1592~1596)に徳川家康が五院を再興して十二院となったが、明治維新後には、ついにまったく廃墟となってしまった」
石碑があるのみ。
このあたりはもともと鶴岡に仕える僧侶(供僧)の住居坊があった場所である。鎌倉時代にはこの僧侶たちは二十五人と定められ、二十五坊の名はここから起きた。碑文にもある通り、室町時代には廃絶するものも多く七坊にまで減ったが、徳川家康によって十二坊に再興された。明治の神仏分離令によって鶴岡八幡宮は寺院ではなくなり、供僧は廃止されたため、二十五坊は廃絶した。
| 名前 |
二十五坊旧蹟碑 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.3 |
| 住所 |
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つい通り過ぎてしまいそうです。