熊谷次郎直実の墓、枝垂れ桜の名所。
蓮生堂(熊谷次郎直実墓)の特徴
蓮生堂は妻の実家のすぐ近くに位置する史跡です。
管理人の方が在籍しており、鍵を開けて館内を案内してくれます。
一度訪れてみたかった場所として、多くの人が感動しています。
戦乱に明け暮れて多くの人の命を奪って来た熊谷次郎直実が念仏を唱えれば救われるという法然に傾倒、出家して蓮生法師となり、『武蔵国児玉郡誌』によればその遺骨の一部がここに埋葬されている、と。自分の領地を安堵してもらうためとはいえ、一種の職業軍人の道を選んでおいて、老いてから救いを求めるとは身勝手な、と思わなくも無いですが、他人に危害を与えることをしなかった人でも老いるに連れて宗教的な神仏かどうかは兎も角、神に救いを求めようとしますね。
大字下児玉字熊谷の地にある小堂です。この小堂は、町の北西部を流れる小山川西岸の熊谷公会堂の裏手に建っています。ここに「熊谷次郎直実公の遺骨が埋葬されている」と伝えられている。昭和2年(1927)に作成された「武蔵国児玉郡誌」には、大字下児玉の旧家に「文化11年(1814)に京都黒谷の金戒光明寺から届いた依頼状があり・・・」と記されており、また、安永元年(1772)に書かれた「武乾記」には「下児玉村之内熊谷に熊谷次郎直実の墓あり・・・」とあります。その真偽は不明ですが、当時、直実公の墓が下児玉の熊谷の地にあると伝えられていたことがわかります。小堂を守るように咲くしだれ桜は雄大で、とても美しく、地元の人々から「熊谷桜」と呼ばれ、愛されています。
とにかく、枝垂れ桜🌸が綺麗です✨
熊谷次郎直実公はいつ亡くなったのか諸説ありますが、ここ下児玉熊谷で亡くなったことが有力視されています。
ここに熊谷次郎直実の墓です。ここが地元の直実の家臣の下山上総介直明が、分骨して祀った所です。この辺の小字は熊谷とのこと。
大勢力はないものの個人的能力を発揮して神戸京都高野山銀座その他に関連史跡や由来お土産鳩サブレ等ある熊谷直実公ですが、此方蓮生堂は分骨されたとか本拠地熊谷市からは遠く本庄駅から、秋葉原駅から1100が1500位にバスで6駅260?其処から歩いて25分位平坦な田園地帯で丘の茂み川側に降りると桜の名所看板が、熊谷寺は非公開の時もあるので此方も其れなりですが同じ美里町で同時代猪俣範綱関連史跡まで歩いて1時間30麦畑等埼玉武蔵七党の風景込で。
一度来てみたかった場所。しかし、鍵閉まってご開帳には至らず…ガラス越しに中を見ると石のほこら が。直実のお墓は全国に点在している謎も解けました。直実、蓮生和尚の家臣の子孫の方々、地元の方々ありがとうございます!
とても良き場所🌸
蓮生堂(れんしょうどう)に、ロケハンに行って来ました。駐車スペースが2台位しかありません。周りは、家🏡等が建ち路駐などが出来ません‼️周辺を調べたら、公園がありました。公園から小山川に向かって歩き、砂利道を右折⇒道なりに進み十条熊谷橋に出たら左折(橋を渡る)。対岸に渡れば蓮生堂はスグです。因みに、公園から蓮生堂まで、歩いて約20分位です。蓮生堂のシダレサクラですが、2~3本🌸です。満開ならさぞかしキレイでしょう👌 シダレサクラは、熊谷公会堂裏に有ります。公園名は、身馴川公園です。
| 名前 |
蓮生堂(熊谷次郎直実墓) |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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周辺のオススメ
熊谷直実の遺骨を葬った場所。お堂と何らかの墓石と説明板、それに熊谷桜がある。駐車場は無いが交通量が少ないので写真を数枚撮るくらいなら路上駐車でも大丈夫だろう。熊谷直実は熊谷出身の武将。保元の乱には源義朝に属し平治の乱では源義平麾下17騎のうちの一人となった。源平合戦では当初平家方として石橋山合戦に参加するも源氏に帰参、富士川の戦い・金砂郷攻め・宇治川の戦い・一ノ谷の戦いに参戦した。一ノ谷で年若い平敦盛を討ったことで菩提心を起こし法然の元で出家、蓮生坊と名乗った。ちなみに織田信長が舞ったことで有名な敦盛の一節は幸若舞敦盛の中の直実出家シーンの詞句である。屋島合戦が始まると聞いた直実は我も敦盛と同じ様な憂き目に遭うのであろうかと思い悩み、"思えばこの世は常の住処にあらず(中略)人間五十年、化天の内を比ぶれば夢幻のごとくなり。一度生を受け滅せぬ物のあるべきか"、との考えに至り是を菩提の機縁として法然上人に師匠になってもらって出家したという。蓮生坊は誕生寺・法然寺など多くの寺院を開基した後に熊谷に帰り現在熊谷寺がある場所で没した。遺骨は粟生光明寺に葬られたという。一方で別伝もある。直実が亡くなると家臣下山直明は武蔵国の十条と呼ばれる地に遺骨を埋め熊谷山蓮生院善台寺と名付けた。これが現在蓮生堂がある場所である。ここから金戒光明寺に分骨したとされその事情を記した書状が現存している。話は反れるが蓮生堂のある場所は微高地となっておりやや小高い。生野山(なまのやま)丘陵と呼ばれる小山川の河岸段丘でありその上には生野山古墳群が築かれている。このあたりは児玉党の支配地なので被葬者は児玉党有道氏の祖である丈部氏であろうか。この生野山では戦国時代に生野山の戦いが起きた。上杉謙信と北条氏康がただ一度繰り広げた野戦である。謙信の野戦における才は万人が等しく認めるところであり野戦を避けられる傾向にあった。それ故上杉の関東での軍事行動はその殆どが攻城戦へと追い込まれている。野戦を行ったのは関東ではここ生野山のみである。松山城を攻囲する北条氏に対して城兵救援に現れた上杉氏が挑んだ後詰め決戦であり経過の詳細不明ながら上杉が敗北している。これ以後謙信は唐沢山城を巡る不毛な戦いに追い込まれて関東での勢力を減らしていくのである。