八幡宮と歴史散歩、館林の魅力。
八幡曲輪跡・八幡宮の特徴
館林城跡では郭の跡が見られ、歴史を感じる場所です。
土塁が確認できる貴重なスポットで、城郭の魅力を体感できます。
明治の大火で焼失した歴史を持つ、興味深い遺構が存在しています。
館林城の八幡郭(はちまんくるわ)にあった八幡宮は、館林城の歴史と深く結びついています。八幡郭は館林城の中心部である本丸に隣接する形で配置され、そこに八幡宮が鎮座していました。〇築城期(中世)-館林城の築城時期は諸説ありますが、最も古い記録では文明3年(1471年)に「立林城(館林城)」として上杉軍に攻略されたことが記されています。この頃から城として機能しており、八幡宮が城内にあったか否かは定かではありませんが、武家の守護神である八幡神が祀られることは一般的でした。〇戦国時代末期~江戸時代初期(榊原氏の時代:1590年~1643年)-天正18年(1590年)、徳川家康の関東入封に伴い、徳川四天王の一人である榊原康政が10万石(後に11万石)で館林城主となります。康政は城沼を濠として利用し、本丸以下7郭(約43ha)からなる近代的で大規模な城に改修しました。この時期に、現在の八幡郭に八幡宮が整備されたと考えられます。八幡宮は城の鎮守社としての役割を担っていたと推測されます。〇江戸時代中期(徳川綱吉の時代:1661年~1683年)-寛文元年(1661年)、後の五代将軍となる徳川綱吉が館林城主となり、25万石を与えられます。綱吉は寛文4年(1664年)に幕府より2万両を借りて城の大改修を行いました。この時期の館林城は最も輝いた時代とされ、八幡宮も城郭の一部として維持されていたと考えられます。〇江戸時代後期~幕末(秋元氏の時代:1845年~1871年)-館林藩は江戸時代を通して7つの家が藩主を務めましたが、最後の城主は秋元氏でした。弘化2年(1845年)に秋元氏が山形から転封してきて、廃藩置県まで館林を治めました。この時代にも八幡宮は八幡郭に鎮座し、城の鎮守社としての役割を継続していたと考えられます。〇明治時代~現代-明治7年(1874年)に大名小路より出火した火災により、館林城の建物は大半が焼失しました。その後、焼け残った建物も取り壊され、城郭としての役割は失われました。しかし、八幡郭の八幡宮の社殿は現存しており、旧城内にあった貴重な遺構として、昭和62年(1987年)に館林城の本丸土塁と共に「館林市指定史跡」に指定されています。このように、館林城の八幡郭にあった八幡宮は、戦国時代末期から江戸時代にかけて、城の鎮守社として重要な役割を担い、城の変遷を見守ってきた歴史を持つ貴重な存在です。ここに、来られた方は是非、拝殿奥に鎮座する貴重な歴史資産をご覧頂きたいです。そしてこの地を長くに渡り見守ってこられた八幡様に感謝して頂きたいです。長文失礼いたしました。
館林城跡は館林に親戚があったので存じあげていました。つつじが岡公園は何度も行きました。城跡にまだ最近行き、復元城門で当時を偲ぶこともできしたが、城跡としては縄張りがわかりませんただ江戸時代の最後の城主は秋元氏であり、深谷市には秋元氏の墓と秋元館跡と町名に秋元町があります。前橋総社には秋元氏の墓があり、淀君の墓も一緒にあるとか。
館林城跡?知りませんでした。😅💦寒桜の写真を撮りに文化会館まで…残っているのは門構えだけでした。勿体ないな〜
城沼も埋め立てられていて、建物も明治の大火で焼失し、土塁も破壊されているので城跡とわかるものはあまりありません。本丸(向井千秋さんの博物館周辺)の土塁と三の丸の辺りは辛うじて遺構があるので、そちらを見学されると良いのではないでしょうか。
群馬県館林市館林城🏯跡。築城主、赤井照光。15世紀1500年前改修者、榊原康政。その後城主、赤井、榊原、松平、徳川となる。1471年上杉軍が赤井文六、文三の居城当時館林城は立林城と読んでいたみたいです。現在、本丸跡には痕跡が無くお城があったと言う感覚しかありません。平坦地で原っぱなので!写真にもある様に城囲む外壁や門構えが現存しており、昔ながらの井戸等が残っています。館林城ってどんなお城🏯だったのかな?徳川藩主、徳川4代目将軍ゆかりの居城だったみたいです!
郭の跡と土塁が確認出来ます。
| 名前 |
八幡曲輪跡・八幡宮 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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館林歴史散歩木の上の鳥も素敵沼があるので鳥がいっぱい。