歴史が息づく赤門散策。
赤門の特徴
赤門は文政10年に建てられた歴史的な門です。
東京大学のシンボルとして広く知られています。
旧加賀藩の前田家上屋敷だった門がここにあります。
ブラタモリ東大本郷キャンパス編で紹介された話ですが、徳川将軍家の娘が加賀前田藩に嫁入りするときに作られた赤門の屋根には、徳川家の家紋が入っているそうで、番組内では双眼鏡で確認していますが、スマホで撮影して拡大してもその葵の家紋が確認できます。昨日の東大ホームカミングデイだけ記念開門中ですが、改修前の赤門に会えるのはこれが最後だそうで、この後2025年10月から2027年秋まで赤門は耐震の改修工事の予定になっています。
2025.10.12東京大学と言えば、この赤門朝から観光客の方が写真を撮っていました自分もそうです実物を見ると、やはり凄いとしか言えませんずっと残って欲しい建造物です。
東大本郷(農学部除く)は、百万石の加賀藩上屋敷の跡地ですが、その名残の表御門です。徳川11代家斉の第21女溶姫が、加賀藩主前田斉泰に輿入れした1827年に作られましたが、明治時代に15m移動しているそうです。国の重要文化財に指定されています。
東大を目指す人ならたぶん憧れる赤門。正門から御茶ノ水方面(東)に歩くとあります。現在閉門中。2027年の復活目指しているそう!お金持ちの東大出資者は寄付しましょー。
赤門撮ったので見てください。東京大学と言えば!この場所でしょう。
2021年3月に訪問したがタイミングよく工事してた…泣いていいよね😭そしてここが正門じゃなくて驚いた!
なんの所縁もない門ですが、気のせいか、背筋が伸びます。少しだけ、賢くなった気がします。
星3は閉鎖中ということで。閉鎖情報は他の人も上げてるけど、新スマホmoto g30での写真撮影練習も兼ねて、アップします。見てないけど、ドラマのドラゴン桜に影響あるのかなぁ?
東京大学の敷地はその大半が江戸時代の加賀藩上屋敷跡(北側一部が水戸藩屋敷)で、赤門は文政10年(1827年)に加賀藩第 13 代藩主前田斉泰が徳川第 11 代将軍家斉の息女溶姫を正室として迎えるにあたり、その住まいである御守殿とともに建てた門(正式名称:加賀屋敷御守殿門)。御守殿門は一度焼失してしまうと再建は許されなかったそうで、そのためこの門には専用の門番がおり、四六時中厳重な警備が成されていた。加賀藩前田家は、寛永年間(1624〜1645年)の最盛期には加賀・越中・能登の三国内で表高119万2760石を領有し、御三家に準ずる家格を与えられていた。「加賀百万石」はこれにちなむ。上屋敷の敷地は、北は水戸藩中屋敷、東は加賀藩の分藩である大聖寺藩と富山藩の上屋敷が接している。ただし、大聖寺藩・富山藩の敷地は正式には加賀藩の敷地を貸していたので、加賀藩として10万4千坪余りの広大な土地を拝領していた。現在、中山道に面した南側の一部が大学敷地ではなく民有地となっているのは、往時はそこに幕府の同心組屋敷などが建っていたからである。この敷地を拝領した当初は下屋敷用地としてしばらく放置されたようだが、最初の上屋敷(江戸城近く)を明暦の大火(1657年)で失い、移転した上屋敷(筋違橋近く)も天和2年(1682年)の大火で失う。その後、前上屋敷は元々が手狭だったため、この本郷屋敷は補助邸として将軍や大名を招いて接待する屋敷として、広大な敷地に豪奢な御成御殿や数寄屋、庭園の育徳園などを持っていたこともあって、こちらを上屋敷に改めた。ちなみに、中屋敷は駒込の六義園南西側に隣接してあり、敷地は2万660坪で抱屋敷(幕府から拝領した土地ではなく買い取った土地にある屋敷)であった。また、下屋敷は現在の板橋区加賀一丁目にある加賀公園周辺一帯で、ここには21万8千坪という広大な土地を有していた。
| 名前 |
赤門 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
03-3812-2111 |
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
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赤門は、火災や震災の際に再建が許されない慣習があったため、焼失したものが多く、現存する貴重な門だそうです。