八重山の英雄、オヤケアカハチの生誕地。
アカハチ誕生の地の特徴
竹富町指定文化財に指定された歴史ある場所です。
南共同売店の近くにひっそりと佇む石碑があります。
八重山の英雄が生まれた歴史的な現場を体感できます。
詳しい歴史は知らないサウスバウンドを読んで気になっていた人物綺麗に整備されているわけでもなく、訪れる人も少ないのであろう。ひっそりとしていてオヤケに思いを馳せるのにちょうど良い。
波照間島に2回目に行ったときに知った。民宿たましろに宿泊したのだが、その時同席した老人がここ目当てで来たといっていて初めて知りました。ちなみに、民宿たましろのオーナーは数年前に亡くなったとの事。ご冥福お祈り申し上げます。20年ほど前に宿泊しました。当時すでに経営者が高齢で常連客と島民の善意で運営されており、民宿の体はすでに崩壊していた気がします。そして、常連客が我が物顔で取り仕切り、宴会では相手の無知からくる侮辱を受けました。こんな辺境の地でなぜ貶められなきゃいけないのだろうと非常に不愉快な気持ちになったと同時にそんなことくらいしか楽しみの無い、しみったれた人生を送っているんだろうと考えこんな人間にはなるまいと反面教師にしました。
東京にいると、最南端の地でこのような歴史があったことを知る機会はないが、過去に思いを馳せる良いきっかけとなった場所。
個人的に波照間の観光名所だと思っているオヤケアカハチ生誕の地と長田主生誕の地。オヤケアカハチは15世紀末の八重山の英雄。琉球の力を借りて八重山支配を目論む宮古島の仲宗根豊見親に反抗したが、敗れた悲劇の英雄でもあります。長田主とは幼馴染で二人の生家は50mほどしか離れてません。長じて、二人は石垣島に移り、長田主は今の石垣港一帯を治め、オヤケアカハチは今の大浜一帯を支配していたと言われています。生誕の碑は道路から見ると高めの位置にあるので見落としがちです。
2024.02.26八重山では昔オヤケアカハチの乱という戦いがあった。1500年の話しで、中山は最盛期と言われる尚真王の時代。八重山の統治を強めたい首里と水先案内を務める宮古島の連合軍、それに対抗するオヤケアカハチが率いる石垣島。しかし石垣島は一枚岩ではなく、反対する酋長もいたようで、粛清されたり逃亡した人物がいる。逃亡した長田大主という人物も波照間島の出身で歩いて数分の場所に同様の石碑がある。結果は首里王府側が勝利し、支配が強化され人頭税で苦しんでいく。首里からすれば反乱者だが、石垣島からすれば島を守ろうとした英雄だね。もっと書くと首里からすれば八重山は半植民地みたいなものだと思う。薩摩からみた琉球がそうであったように。
(2023/07) 1500年頃、石垣島で敵味方に分かれて戦ったオヤケアカハチ ( 遠弥計赤蜂 ) とナータフーシュ ( 長田大主 ) は二人とも波照間島の出身で旧知の仲だった。アカハチは体が大きかったと伝えられ、西洋人の子とか倭寇の子とも云われる。1470年頃生まれ、18歳頃までここで育ち、石垣島の大浜に移り住み大勢力となって乱を起こした、とされる。今はむしろ「八重山の英雄」というのが地元の評価。裏手の森はケーシムリワーという御嶽なので入ってはいけません。
八重山の英雄、オヤケアカハチ生誕の地です。集落の中なひっそりと佇んでいます。周囲には木々が茂り、花々が咲いています。往時の歴史に思いを馳せ、手を合わせました。後の八重山の苦難の歴史が1500年のオヤケアカハチの乱から方向づけられたのかもしれないと感じられます。
アカハチ誕生の地 -2022年6月29日注意して見ないとどこにあるかさえわからないなんのために建立したのか、なんのために整備するのか?草だらけ、草ボウボウオヤケアカハチを八重山の英雄と讃えるならば、町や自治体などあてにしないで集落の持ち回りで清掃整備するのがいいと思います。石碑の文字もなんと書いてあるのか全くわかりません。はっきり言えば「終わってるわ」あと数年後には草に隠れてどこに何があるのか分からなくなると予想されます。
15世紀末ここに出生した, 豪傑, 波照間のヒーロー"遠弥計赤蜂", 八重山の解放の為に琉球王朝の大軍に果敢に立ち向かい散ってしまった英雄. 波照間の子供達 👦👧の劇も, 模様されています. 私自身も琉球王朝時代のドラマ化を希望しています.
| 名前 |
アカハチ誕生の地 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
周辺のオススメ
15世紀末〜16世紀初頭の八重山の英雄、オヤケアカハチ生誕の地琉球王国が八重山諸島を本格的に支配しようとした際、重い年貢や支配に反発して抵抗した指導者です。だいぶ見つけにくいです。