桜ケ岡口で蝶と苔の出会い。
桜ケ岡口の特徴
琴柱灯籠と虹橋近くの入園口を利用しやすい。
苔や多様な木々の香りを楽しみながら散策できる。
花咲く木に集まるちょうちょが目を引く美しい環境。
兼六園には7つの入口があるが、その中でもひときわ印象的な門が「桜ケ岡口(さくらがおかぐち)」だ。兼六園の西側、金沢城の石川門に近い場所に位置し、兼六園の桜の名所・桜ヶ岡エリアに直結する入口として知られている。兼六園自体は江戸時代初期、加賀藩前田家の庭園として誕生した。園の原型となった「蓮池庭(れんちてい)」は延宝4年(1676年)、5代藩主・前田綱紀が造営したもので、当時は藩主一家や特別な客人のみが入れる贅沢な庭だった。この蓮池庭は後の火災で一部が焼失したが、歴代藩主が改修と拡張を重ねて今日の規模になったというわけだ。特に文政5年(1822年)、12代藩主・前田斉広(なりなが)が庭園を整備した際、奥州白河藩主で幕政にも深く関わった松平定信(さだのぶ)に「兼六園」の名を書かせ、庭園の扁額としたことから、現在の名前が定着した。この名前は、中国の故事にある「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望」の6つを兼ね備えた庭という意味を持つ。さらに13代藩主・斉泰(なりやす)の代には「成巽閣(せいそんかく)」と呼ばれる優美な隠居所が造られ、兼六園はほぼ現在の姿に完成した。桜ケ岡口が実際に整備されたのは明治以降の話だ。江戸時代には、兼六園はあくまで藩主一家や限られた客だけが訪れるプライベート空間で、正式な入口も「蓮池門(れんちもん)」だけだった。しかし明治7年(1874年)に一般公開されると、市民の憩いの場となり、アクセス性向上のため入口がいくつも設けられた。その一つが桜ケ岡口であり、大正から昭和初期までには現在と同じ位置に門が確認できる。現在、桜ケ岡口から入ると桜ヶ岡と呼ばれる丘陵地に出るが、面白いのは、江戸時代後期の頃、この辺りには桜はほとんどなく、一面田んぼが広がっていたという話だ。明治以降、市民のために本格的に桜が植えられたことで、今の華やかな桜ヶ岡となった。特に明治37~38年の日露戦争後に植えられたソメイヨシノが多く、現在でも見事な老木が毎年春に咲き誇っている。また、この桜ヶ岡にはかつて金沢の桜開花宣言の標準木があり、昭和末期まで市民の注目を集めたというのも興味深い話だ。さらに、桜ヶ岡にまつわる古い逸話として、戦前頃まで桜の枝に短冊を吊るす「花見短冊」の催しがあったという。金銀の短冊に和歌や俳句を書き、枝に掛けて楽しむ雅なイベントで、多くの風流人がこの場所で和歌や俳句を楽しんだという話が伝わっている。現在はこの行事こそ行われていないが、兼六園らしいエピソードだ。桜ケ岡口は周辺の史跡とのつながりも深い。金沢城跡の石川門はすぐ隣にあり、現在は桂坂口から直接行けるようにもなっている。兼六園は元々金沢城を守るための防御的機能を兼ね備えていた庭園でもあり、桜ケ岡口周辺の高台も、かつては城下町を見下ろす監視や展望の場として機能していた。実際、藩主がこの丘陵地帯から城下町の祭りを見物したという記録も残っている。園内の反対側には成巽閣があり、13代藩主・前田斉泰が母親のために建てた豪華な書院造の建物は現在も重要文化財として一般公開されている。また、園の南側には、藩政期に藩校の守護神として建てられた金澤神社(かなざわじんじゃ)も位置するなど、この地域一帯はまさに加賀百万石の文化が凝縮されたエリアと言える。このように、桜ケ岡口を中心に見るだけでも、兼六園が持つ文化的・歴史的な深さを感じることができる。門をくぐった先に広がる桜ヶ岡の光景は美しいだけでなく、時代の移り変わりや、歴史が重ねられてきた証のようにも感じられる。桜の時期だけでなく、一年を通じて訪れる価値のあるスポットだろう。訪れた際はぜひ、門一つにも歴史の深みが刻まれていることを意識しながら散策を楽しんでみてほしい。兼六園という名園をより深く味わうことができるはずだ。
いわゆるフォトスポットな「琴柱灯籠と虹橋」に一番近い入園口。小屋に受付の人が一人いるだけだけど、あまり知られてない穴場・抜け道なので、メインの桂坂口が行列してたら、こちらに回るのが吉。20240901現在では、出てすぐ脇に喫煙所、バイクも置ける駐輪場あります。
苔がびっしりと生えており、水が豊富であることを示している鮮やかな葉を有する大小さまざまの木々がバランスよく配置され木々の香りを楽しみながら進むことができる花の咲いている木にはちょうちょがたくさん集まっていた。
| 名前 |
桜ケ岡口 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
076-260-5412 |
| 営業時間 |
[金土日月火水木] 7:00~18:00 |
| HP | |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
|
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