野麦峠で美しい花々と出会う。
野麦峠の特徴
野麦峠へのアクセスが意外に大変でドライバーには注意が必要です。
展望台までの道のりで美しいお花が楽しめる自然スポットです。
昔からの情緒ある雰囲気で観光客も少なく静かなひと時を過ごせます。
知名度の高さの割に口コミ数がやけに少ないなと思いながら訪れてみると、3連休初日にも関わらず観光客が2,3人程度でした。駐車場は広いものの併設の「野麦峠の館」という観光施設は閉館した模様。「お助け小屋」という食事と土産の小さなお店が営業しており、何やら哀しげな歌をスピーカーから流しながら資料や人形等も少々展示されています。結構な標高(1,672m)でありながら、松本側からの道路はさほど険しくはありませんでした。下手に観光化され賑わうよりも、この寂しげな雰囲気こそ野麦峠のイメージには合っているのかも知れません。
寂しげな雰囲気は今も昔も変わらずか。道はすれ違い不可能な場所が複数あり、バイクはともかく車ではもう来たくないかなという感想です。
GW時期に車で岐阜→長野、帰路の長野→岐阜で利用しました。長野からはそれほどでもないですが、岐阜からはカーブがキツい上、所々山水が道路に流れ込んでいるなど、気が抜けない感じでした。(衝突アラームが複数回鳴る位にはカーブが連続する)往復なんかすると、確実に膝がガックガクになるので、峠ではきちんと休憩させてもらいましょう。
有名な野麦峠長野県側から車で行くには思ったより大変、道は狭い交通量が少ないので対向車とのすれ違い頻度が少なくて助かったけどコロナ前は宿泊施設や資料館が在ったようだけど今は廃屋それでも、一度は訪れる価値はありお花は綺麗に咲いてましたお助け小屋が有って良かった。
初めて野麦峠に行きました。道を修理している箇所がありましたか、問題無くとおれました。晴れていたので乗鞍岳も良くみえました。
長野県へドライブに行った帰り道に立ち寄りました。岐阜県高山市と長野県松本市の県境に位置し、能登で取れたブリを飛騨を経由して信州へと運んだ鎌倉街道・江戸街道と呼ばれる街道の峠で、標高1672mの地点にあり日本最高所の水準点がおかれていて、「お助け小屋」とよばれる避難小屋があるほど、交通の難所として知られ、北に乗鞍岳、南に御嶽山が望まれ景観が素晴らしい所で日本の秘境100選の一つにも選ばれています。岐阜県側は県立自然公園として旧街道を利用したハイキングコースが整備されており、長野県側では県史跡として旧街道の一部を保存しています。1年間のうち約半年間は積雪で通行止めとなり、11月10日ごろから閉鎖の準備に入り、翌年5月1日に峠開きが行われます。明治の初めから大正にかけては、現金収入の乏しい飛騨の村々の十代の少女が女工として出稼ぎのために生糸工業で発展していた諏訪湖畔の岡谷の製糸工場へこの峠を越え、年の暮れに稼いだ金を故郷へ届けるために、雪深い冬の険しい野麦峠を再び越えて飛騨へ向かい、猛吹雪や雪崩に見舞われ、遭難して命を落とす少女たちも少なくなかったといわれています。この史実は、1968年に発表された山本茂実のノンフィクション『あゝ野麦峠』として全国的に有名になり映画化もされました。
有名な野麦峠長野県側から車で行くには思ったより大変、道は狭い交通量が少ないので対向車とのすれ違い頻度が少なくて助かったけどコロナ前は宿泊施設や資料館が在ったようだけど今は廃屋それでも、一度は訪れる価値はありお花は綺麗に咲いてましたお助け小屋が有って良かった。
ここに車を置いて、少し歩くと展望台まで行けます。御嶽山がきれいに見えてトイレも完備されています。近くに蕎麦などの軽食がとれるお店もあります。
2019年5月に訪問五月だというのにまだ雪が残っていました。
| 名前 |
野麦峠 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
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野麦峠の道は野麦街道と呼ばれる。飛騨から信州松本へ抜ける道で、明治時代には諏訪の製糸工場へ働きに行く女工達が通ったことで知られる。距離と標高を考えると、野麦峠が一番楽だったようだ。それでも大変な難所であることに変わりはない。『ああ野麦峠』が小説や映画で有名になったため、観光客も増え、道の整備が認められたのだろう。標高1672メートルは安房峠よりちょうど200メートル低い。お助け小屋の売店は開いていて平和にアイスクリームを売っている。『ああ野麦峠』の主人公『みね』が兄に背負われている白っぽい石像は不気味なものにしか見えなかった。観光地に石像や銅像を建てたがる人種がいるが、大抵出来が悪くモデルのイメージを損なう。背後には山頂に僅かに雲がかかった乗鞍岳が文字通りそびえたっている。ここからもざっと1500メートルは高い。峠を岐阜県側下る、道の状態は長野県側より良好だが、勾配は長野側の方が厳しいようだ。長野側にある、旧野麦街道の入口の長野県史跡「旧野麦街道」の看板によると、江戸時代、松本と飛騨高山を結ぶ道は新州側では一般に「ひだみち」と呼ばれ、幾つかのルートがありました。松本藩が編集した「府統記」(しんぷとうき)には、「松本ヨリ飛騨高山へノ道程」として松本から薮原、寄合渡、野麦峠を経て高山にいたる道が本道として記されていますが、松本から、入山、黒川渡、野麦峠を経るルートも利用されていました。この道が一般的に野麦街道と言われ松本から野麦峠までの呼称となっていました。野麦峠を越える道は、当時天領であり代官所があった飛騨国高山と江戸を結ぶ道として利用されるとともに、信濃からは米、清酒などが、飛騨からは(プリ・飛騨師と呼ばれた)、塩等の海産物や曲物(まげもの)、自木などが運ばれました。明治期に飛騨三郡と中南の四郡がいっしょになって筑摩県が置かれると、本庁のある松本と支庁のある高山を結ぶ連絡道路としてこの道は重要視されました。また、岡谷をはじめとする諏訪地方で製糸業が盛んな頃は、飛騨方面の工女たちが往来する道でもありましたが主として利用されたのは大山を通るルートでした。