最上義光公と家臣の御霊屋。
最上義光公御霊屋の特徴
みちのく屈指の戦国大名の御霊屋がある場所です。
最上義光公と十人の家臣の位牌が祀られています。
現代の山形を築いた戦国大名の歴史が息づいています。
2024.10.5【最上義光公御礼屋】この寺は天台宗の寺院で、文明3年(1471)足利氏の祈願寺として建立された永禄9年(1566)武田氏の兵火にあい焼失したのを、元亀年間(1570~73)現社地に再建したものとの事。【最上氏と立石寺の関わり】この最上氏と立石寺は代々深い関係を有している。根本中堂を再建したことからはじまる。山寺のある位置が、山形城の鬼門鎮護の位置にあることに起因するとされる。永正17年(1520)伊達稙宗が天童・高櫤を攻めてきたときに、山寺の衆徒らが伊達方に加担したことを恨んで、大永元年(1521)天童・成生両氏が山寺に攻撃をして灰燼に帰してしまう。山寺を最上氏らの援助などによって再興していく。天文3年に立石寺日枝神社が修造されるが、旦那の一人「山形殿」は最上義守である。同じく焼き討ちによって不滅の法燈が焼失し天文12年(1543)立石寺の一相坊圓海は、4月に比叡山に登拝し、6月に根本中堂の燈火を分火してもらい、海上を輸送した後に立石寺に納火する。この時助成したのが義守の母であるが、義守は中野義清の次男とされるので義清夫人ということになる。この燈火は元亀2年(1571)に信長の焼き討ちにあって焼失した比叡山根本中堂に、今度は立石寺側が天正13年に登拝して納めることになる。永禄13年義光が願文を献じて、本懐を遂げたあかつきには、「他宗住居」を認めないことを誓っている。「本懐」については、従来から義光の家督相続のことを意味していると解釈されている。父義守との父子相克があって、家督相続に暗雲が立ちこめている状況下で願文が書かれたことになる。自分の将来を託すほどに山寺への崇敬が厚かったことになる。天正14年義光は常燈油田を寄進する。この時自らを「高楡小僧丸 義光」と称している。天正12年(1584)いわゆる天童合戦に勝利して、領地を現在の村山・最上両地域に拡大し、さらに庄内まで触手を伸ばしたその後近世に入ってから、慶長4年義光は、立石寺納経堂を修造している。慶長13年には楯岡光直(義光の弟)が、義光の長寿を祈願して立石寺根本中堂に鰐口を寄進している。このように最上氏が山寺を崇敬し、保護するという関係は、最上氏が改易されるまで続いていった。
参道左手には、みちのく屈指の戦国大名、最上義光の御霊屋。他国生まれの私は余り良いイメージが無いが、山形の民には慕われていたのでしょうね。
元山形城主のお墓だそうです。歴史を感じます。
現代の山形の基礎を築いた戦国大名最上義光公と十人の家臣の位牌を祀っているそうです。戦国シュミレーションゲーム『信長の野望』ではお世話になりました。
最上義光と家臣ら合計10人の位牌が納められています。
戦国大名の雄ですね。
最上義光公と家臣達の位牌が祀られています。奥之院に行く途中にあります。
伊達政宗の叔父である山形の戦国大名、最上義光公とその家臣の位牌が収められているそうです。
| 名前 |
最上義光公御霊屋 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
周辺のオススメ
先人の領主には感謝しかありません。