江戸時代の歴史感じる麦島城跡。
麦島城跡の特徴
麦島城跡は江戸時代の地震で倒壊した歴史がある場所です。
城の遺構は地下にあり、説明看板のみが存在しています。
周囲は住宅地で、天守跡が残る小高い丘があります。
「エッ、ここですか⁉️」が正直な感想😅☆住宅地の中の空地、少し周囲より地面が高くなった場所が「天守台」の推定地とのこと、空地に置かれている石は本来の「麦島城跡と関係ない石」を配置、城郭の全ては市街地の地中に😓豊臣秀吉側近「小西行長」が1588年(天正16年)築城した巨大城郭がここにあったとは、南蛮貿易への港「徳淵の津」を設け、薩摩の戦国大名「島津氏」の監視を担う凄く重要な拠点、発掘調査で発見された金箔瓦は豊臣秀吉からの信頼の証⚔️1600年(慶長5年)関ヶ原の戦い、敗北した西軍の小西家は滅亡、肥後国は加藤清正が一国統治、1615年(元和元年)の一国一城令でも熊本城と共に麦島城は島津氏の監視重要拠点として一国二城存続した稀有な城、1619年(元和5年)の大地震で麦島城崩壊し壊滅、この地に再建されることなく現在の八代城を築城、一国一城令後に更に新城築城したとは全国的にも珍しい🤔
麦島コミュニティセンターから徒歩5分位のようでしたが、時間があまりなかったので車で向かいました。すぐに左折できる道もなく、割りと先に行ってしまいました。左折後も道が狭くてわかりにくかったので途中の空き地に駐車して走りました。もう少し時間があればでしたが、ほとんどの遺構は土の中にあり、発掘調査後も埋め戻しされています。
皆さんが書かれているようにお城跡という感じはあまりしません。ただ、一国一城であるはずなのに肥後の国だけこの麦島城も例外で認められていたということから、やはり戦略的・地勢的に重要な城であったのでしょう。今でこそ八代市の中心は八代城跡付近や臨港線あたりですが、当時は海に近く外国とも長崎ともここから行けるということで一番栄えていた所だったのですから。ちなみに島津軍は麦島城近くの徳の淵から島原方面に軍を進めています。竜造寺を滅ぼした兵たちもここから出港したのではないでしょうか。何となく今のままというのはもったいない気がしました。
クルマだとどこからアプローチするか迷うが、南側を東西に走る麦島線からだとかなり細い道を入らないといけないので、川沿いの道から、が正解。近くのキリシタン殉教者列福記念公園に駐車させてもらうのもいいが、麦島城の敷地内に駐車できるスペースがある。城の説明板があるので、要チェック。
特別史跡は残ってないがどうにか形だけでも残そうとしてる市の気持ちが伝わる。
今の八代城の前身で、今は小高い丘の天守跡が残る程度で、あとは住宅地となっている。
城の遺構は地下にありますので、城を示すものは説明看板のみです(周囲に散らばっている石は城とは関係ないようです)。
駐車場が少ない。
歴史を感じます‼️
| 名前 |
麦島城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| HP |
http://www.city.yatsushiro.lg.jp/kankou/kiji003603/index.html |
| 評価 |
2.8 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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麦島城は天正16年に九州平定を終えた豊臣秀吉の命により肥後北半国を領した加藤清正が南の小西行長領に対する最前線の拠点として球磨川河口の地取に築かせた強固な平城です!当初は加藤家と小西家の境界を監視する軍事要塞としての役割を担い慶長5年の関ヶ原の戦い直後には小西家の滅亡に伴い肥後一国を領有した加藤清正が自らの隠居城あるいは嫡男の居城として大規模な改修を加え熊本城と同様の堅牢な石垣と連続桝形を配した不落の城郭へと進化させました!ただ元和5年に発生した八代大地震によって地盤沈下と共に壊滅的な打撃を受け石垣や櫓の大部分が崩落する悲劇に見舞われました!幕府の一国一城令の例外として存続が認められていたものの地震による被害が甚大であったため加藤忠広は即座に廃城を決定しその資材や機能は直後に隣接地に築かれた現在の八代城へと引き継がれることとなりました!