大阪城と日本庭園、絶景フォトスポット!
日本庭園の特徴
池泉回遊式の庭園で、散策や写真撮影に最適です。
手入れの行き届いた美しい景観が魅力的です。
大阪城本丸西側の特別なロケーションです。
大阪城のお掘り内、大阪城チケット売場の反対側にある日本庭園屈指のフォトスポットです☺️
この庭園越しからの大阪城はとても美しいです!
大阪城本丸の西側には、池泉回遊式の日本庭園があります。明治時代に和歌山城二の丸から移築された「紀州御殿」の庭園として昭和初期の天守閣復興の際に併せて造られたものです。石灯篭を入れて日本庭園を撮影する際は天守閣を借景とするのがなかなか良いと思います。
大阪城公園から豊臣秀吉公の紹介の続き第5章…ターニングポイントその2、明智光秀の謀反天正10年(1582年)6月2日、主君織田信長公が本能寺にて、明智光秀の謀反により死去(本能寺の変)。備中高松城にて高松城の主、清水長治を切腹させ、毛利元就と講和を行い、直ちに備中から京都へ4万の大軍を率い中国大返しを行う。途中、信長公の三男織田信孝、池田恒興、丹羽長秀、中川清秀、高山右近らを味方につけ、山崎の戦いにて、明智光秀を敗走させる。明智光秀はその後、京都の山中にて武者狩りに遭い死去する。第6章…賤ヶ岳の戦い同年清洲で清洲会議が開かれる。後継者として三法師が決まり、信長の遺領が配分される。織田信雄は尾張国、織田信孝は美濃国、織田信包は伊勢国の北伊勢、伊賀国(どちらも現在の三重県)、丹羽長秀は近江国に新たに15万石、池田恒興は摂津国大坂に15万石、柴田勝家は秀吉公の旧領長浜12万石、一方で一番の功労者の秀吉公は播磨国、但馬国、丹後国(現在の京都府)、山城国(現在の京都府)、河内国にそれぞれ28万石となり、信長公の重臣の柴田勝家を上回る大名となる。これに、柴田勝家は、滝川一益、織田信孝と共に三法師を人質に挙兵。秀吉公は三法師奪還を大義名分にし、池田恒興に諸大名を総動員させ、まず5万の大軍で長浜城を包囲し攻略、天正11年(1583年)桑名城にて滝川一益と対峙する。途中まで一益有利で戦局が動いていたが、蒲生氏郷、細川忠興、山内一豊、長島城、中井城の別働隊の参戦により、一益は降伏し、柴田勝家の重臣佐久間盛政は美濃へ向け出陣する隙を突いて秀吉公は奇襲をかけ、盛政を敗走、中川清秀を死亡させ、高山重友も敗走させた。さらに中国大返し並みに大軍で引き返し、柴田勝家と賤ヶ岳の戦いにて対決する。途中、前田利家が秀吉公の説得で戦線離脱し、勝家は大敗を喫し北ノ庄城にて妻の市共に自害する。これにより加賀、能登、越中を平定する。(秀吉公47歳)第7章…天下人へ同年、秀吉公は秀吉の権威を見せつけるかのように大坂の石山本願寺跡に黒田官兵衛孝高を総奉行とし大坂城を建造する。あまりの豪華絢爛さに大友宗麟は「三国無双の城」と称える。同年、徳川家康公は小田原の後北条氏と婚姻の儀にて同盟関係となる。この知らせに危機感を募らせた秀吉公は、織田信雄に年賀の礼に参加するように命令を下す。信雄は拒否し、秀吉公に宣戦布告する。この挙兵に呼応し徳川家康公、長宗我部元親、紀伊の鈴木重意(すずき・しげおき通称=雑賀孫市)も決起。秀吉公はすかさず、織田信包、関盛信、九鬼嘉隆、尾張国、三河国の2カ国を手土産に池田恒興を味方にし、小牧・長久手の戦いが始まる。羽柴軍10万に対し、織田・徳川連合軍は3万。圧倒的有利の羽柴軍は秀吉公の養子で後継者として育てられた秀次を総大将に戦いが始まる。しかし途中で池田恒興・元助親子、森長可(ながよし)が戦死。戦況は悪化に伴い秀吉公が替わり乗り出し、まず信雄の本領を攻め落とし、信雄を屈服させ、家康公には和議にて敗北をお願いし、家康公の次男の結城秀康を人質にし。小牧・長久手の戦いに勝利し、従五位下左近衛少将を任官し、織田家家中から織田家を逆に掌握し、真の羽柴(豊臣)時代の到来を決定づけた。天正12年(1584年)秀吉公48歳、従三位権大納言。この時朝廷から征夷大将軍になるように勧められたが拒否。天正13年(1585年)秀吉公49歳、正二位内大臣となる。家臣団に加わった藤堂高虎が紀伊の雑賀孫市の首を携え、紀伊平定に尽力。四国平定をした長宗我部元親も、羽柴秀長、黒田官兵衛孝高、毛利輝元、小早川隆景ら10万の大軍に歯が立たず降伏。土佐一国に安堵され、四国平定。朝廷では、秀吉公の処遇を巡って、関白二条昭実と関白左大臣近衛信尹(のぶただ)が対立するも、関白左大臣太政大臣の近衛前久(さきひさ)の猶子(ゆうし…実子みたいな関係)に秀吉公がなり同年7月、秀吉公は関白となる。同年8月に突如越中の佐々成政が謀反するも瞬く間に成政を追い詰め、越中を再平定。天正14年(1586年)正親町天皇(おおぎまち)から豊臣姓を賜り太政大臣を任官。ここに豊臣秀吉公が誕生し、豊臣政権が始まる。(秀吉公50歳)第8章…天下統一天正15年(1587年)、大友宗麟、龍造寺隆信、鍋島直茂は、薩摩の島津義久の勢力に頭を悩ませていた。そこで秀吉公に助力を願う。秀吉公は朝廷の力で停戦命令を島津義久に出すも無視。そこで仙石秀久を総大将に長宗我部元親・盛親親子、十河存保(そごう・まさやす)を進軍させる(戸次川の戦い)。しかし秀久の失策により、長宗我部盛親、十河存保が戦死。天正16年(1588年)大友宗麟が滅亡寸前で、豊臣秀長、毛利輝元、宇喜多秀家、宮部継潤(けいしゅん)ら10万の大軍が合流し根白城の戦いで、島津義久を降伏させて九州平定。(秀吉公51歳)九州平定後に秀吉公は長崎でポルトガル人が日本人を奴隷売買している光景を目撃しバテレン追放令を出す。しかしながら、この法は形だけで、実際はイエズス会の宣教師と通訳、ポルトガル商人と秘密裏に密貿易をしている。事実アレッサンドロ・ヴァリニャーノは2度来日している。さらに秀吉公の遺品にロザリオやポルトガル服がある。京都聚楽第にもポルトガル服を置いてあったとされている。また秀吉公は非常に勤勉家で、仏教や欧州の宗教文化を勉強していたため、外国貿易は中止せず、キリスト教も強制的に追放はしていなかったという文献がある。このことにより長崎では依然イエズス会の力が継続し、豊臣政権も時折宣教師達を支援していた。同年10月、千利休、津田宗久、今井宗久らと北野大茶会を催し、一般庶民にも開放した。そしてこの時に黄金の茶室を披露している。同年12月、伊達政宗、最上義光、後北条氏に対し惣無事令を発布。同年同月に旧平安京大内裏跡地に聚楽第を建造する。(豊国神社にて、第8章続く)
手入れのされたとても綺麗な日本庭園です。大阪城が湖面に映りとても綺麗な景色がみられます。少し離れたところにあるため日本人にはあまり知られていないのか人少なめです。ただ外国人向けのガイドブックには載っているのか外国の方はたくさん来ます。撮影の掛け声が「スシ〜!」でちょっとカワイイ…私もガイドさんに教えてもらわなければ知らずに帰っていたでしょう。
大阪城復興として、今はなき紀州御殿の庭園として整備されたことが、また、庭園西側から天守閣を背景にしての撮影スポットてしてお薦めとありました。観光客が多い時は大変な混雑になります。
本丸の西側に位置する純日本式庭園。池の南側からは大阪城天守閣を借景とした庭園の佇まいを楽しめます。めちゃくちゃ贅沢!水面に映る水鏡“逆さ天守閣”を望める絶好の撮影スポットです。秋が進み木々が色付いてきて、彩りも綺麗。ベンチもあるので、休憩にも良さげです。Wedding Photoを撮影してはりました。素敵。
ここに来ると毎回息子にポーズとらせて写真撮影してしまいます。晴れてる日の日本庭園から望む大阪城天守閣、最高ですね🏯
| 名前 |
日本庭園 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
06-6755-4146 |
| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| HP |
https://www.osakacastlepark.jp/articles/detail.html?id=206&lang=ja |
| 評価 |
4.6 |
| 住所 |
|
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日本庭園は、1931年の「大阪城(おおさかじょう)」天守閣復興に合わせて整備された純日本式庭園です。中央に広がる面積300坪の鶴翼形の池や築山が印象的で、穏やかな時間を過ごせます。池の南側から眺めると、池越しに天守閣を望むことができ、風のない日には水面に天守閣が映り込む美しい景観を満喫できます。都市の喧騒から離れて、洗練された庭園美と景色を一度に満喫できる魅力的な場所です。