青島要塞の歴史を感じる場所。
ドイツ人俘虜収容所跡の特徴
日独戦争で捕虜1300名が収容された歴史的な場所です。
大正3年の第一次世界大戦に関する重要な史跡です。
青島要塞攻撃に関連する歴史が学べる貴重なスポットです。
日独戦争で青島から捕虜1300名をここに連れてきて収容しました。当初は、梅林寺、大谷派久留米教務所、香霞園、高良台演習所の4箇所に別れていたが人員の増加により陸軍衛戍(えいじゅ)病院新病舎跡へ統合される。(現久留米大医療センター駐車場)ハーグ条約にて手厚く保護されたドイツ兵はここで比較的自由に過ごしたと思われる。18棟の宿舎のほか、事務所、調理室、風呂、下水道施設、トイレも完備し、郵便局もあった。各種活動も活発に行われており、各種パーティー、演芸会、スポーツ、音楽会、遠足など定期的に楽しんでいた。特に大正8年12月3日に旧久留米高等女学校の講堂で大衆を前に、日本で初めてベートーベンの第九を演奏したことは、特筆されることです。1914年10月9日から1920年1月26日まで5年4ヵ月の間この地にドイツ兵俘虜収容所が存在していました。
大正3年(1914)第一次世界大戦で日本は日英同盟によりドイツに宣戦布告、ドイツが中国大陸に築いていた青島要塞を攻撃し、陥落させます。青島占領で4,791人のドイツ兵を捕虜とし、4,679人を日本に送り、全国16ヶ所に収容します。当初、久留米では梅林寺、篠山町香霞園、大谷派久留米教務所(日吉町)、高良台演習廠舎(上津荒木村)の4ヶ所に分散収容しますが、大正4年6月に国分村の陸軍衛戌(えいじゅ)病院新病舎跡を俘虜収容所として統合し、熊本収容所と福岡収容所の一部を受け入れて全国最大規模の収容所となります。収容人数は最大1,319人に達し、大正9年3月12日に閉鎖されるまで続きました。
| 名前 |
ドイツ人俘虜収容所跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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普通に医療センターの中にあるみたいです。