高良川沿いの歴史と文化。
筑後国府(第2期国庁)跡の特徴
奈良時代中頃に移転した筑後国府の遺構が残ります。
伊予国司・藤原純友の乱で焼失した説があります。
高良川沿いに広がる歴史深い史跡です。
伊予国司・藤原純友の乱による焼失説があるようだ。余談であるが、純友は、この天慶4年(941)の乱で、大宰府を占領し柳川まで侵攻している。後に蒲池城を居城とし中世の一時は筑後一円を支配、戦後時代には比較的大きな柳川城を築き後に本城とした蒲池氏は、純友の一族が土着豪族となった、という出自説がある。
奈良時代中頃(8世紀中頃)に高良川沿いから国庁が移転してきました。この2期国庁も四周を築地塀で囲まれ、平安時代初め(9世紀前半ころ)には、内部に瓦葺き礎石建ちの正殿の他、東西の脇殿を左右対称に2棟づつ直列に配置していたと考えています。その規模は、南北75m、東西67.5m。筑後国は国のランクが上国でしたが、他国の例と比べると、ややコンパクトな印象を受けます。しかし国庁南辺沿いには宮殿や大宰府政庁のように、左右に対象に朝集殿のような建物も配置していて、威厳のある空間を創り出していました。その2期国庁も平安時代中頃の10世紀半ばには、更に東の3期国庁へ移転しています。その要因となったのは、藤原純友の乱の余波によって政庁が焼失したからだという説もあります。
| 名前 |
筑後国府(第2期国庁)跡 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.4 |
| 住所 |
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筑後国国府が付近にありました。筑後川を渡る地点なのて、古代より重要な場所だったのでしょう。