ひな祭りの歴史を学ぶ、木屋瀬の旅。
旧高崎家住宅・伊馬春部生家の特徴
江戸末期の宿場建築が魅力の文化遺産です。
ひな祭りイベントの華やかなひな人形が楽しめます。
親切なスタッフの案内で、歴史を深く学べる場所です。
ひな祭りの時期で、雛人形を飾っています。
この時期ひな祭りのイベントは多いですが、今日は木屋瀬宿の歴史を学び(笑)、その後でひな人形を見ました。江戸末期建築の旧高崎家住宅の一階に沢山のひな人形が並び圧巻です。間もなく男の子の節句人形に模様替えするそうですから間に合ってよかったです。ボランティアの方がいて船底天井など珍しい建物の説明も聞けました。無料、駐車場もあります。
初めて訪れてみました。沢山の雛壇、年代物と感じられる物が殆どでした。色んなお宅からの寄贈品らしく、皆それぞれに出で立ち、着物の色使い、顔立ちも違い見応えが有りました。27日迄だそうです。無料駐車場🅿️も有りました!行ってみてください。
この場所は江戸末期宿場建築として修復され現在一般公開されてます!建物の内部に伊馬 春部の生家で資料などもあり大黒柱や柱などが昔々を思わせる建物🎵🎵🎵
ひな祭りイベント真っ最中なので豪華なひな人形はちょっと足を止めたくなります。展示物も多数あって興味深いが男子的には家の裏側の方に惹かれるはず。2階和室の天井が船底みたいに湾曲した形になっていたり、雨戸を片手で操作する為出隅、入隅構わず動き回る構造は遊び心たっぷりのギミック感満載でワクワクする。それだけ見所あるのに隣の敷地に無料駐車場用意してる……見に行くしかないでしょう外から見るだけでも白壁がとても美しい長崎街道木屋瀬宿西構口側は見る価値ありますよ。
ひな人形の展示期間で華やかでした。無料で住宅の奥の部分まで見学できます。伊馬春部(いまはるべ)は昭和に活躍した放送作家として知られています。
Quiet and beautiful place.But close very early at evening.
築185年の古民家で北九州市の文化遺産になっています。3月は雛人形が飾られています。ところで、ご存じでした?左のお雛様は、京雛飾りだそうです。
2020・02・23 長崎街道宿場町長崎街道ひなまつり、街を散策中に遭遇する。🎎🎵🎼🎵🎎✍️🎤🔊❝木屋瀬が育んだ放送作家❞新宿ムーラン・ルージュ創立期の座付き作者ののち、ラジオ、テレビ、舞台などの脚本を手がけました。戦後のラジオドラマ’【向う三軒両隣り】【本日は晴天なり】はすさんだ世相にさわやかな笑いとペーソスを送り続けたといわれ、放送作家のなかで、草分け的存在の一人として知られてます。学校の校歌、市歌などをの作詞を多く手掛けています。🎵🎼🎼🎼🎼🎵あなたの母校ももしかして、歌ったかも????福岡県を始め県外の学校も沢山有ります。旧高崎家に、資料を始め、雛人形も沢山飾って有ります。発見ですよね!!!
| 名前 |
旧高崎家住宅・伊馬春部生家 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
093-618-2132 |
| 営業時間 |
[日火水木金土] 10:00~16:30 |
| HP | |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
〒807-1261 福岡県北九州市八幡西区木屋瀬4丁目12−5 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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旧高崎家住宅(伊馬春部生家:北九州市指定有形文化財)は、筑豊電鉄の木屋瀬駅の南西550mほどの北九州市八幡西区木屋瀬の長崎街道沿いにある史跡です。開館時間は10時〜16時で、入館料は無料です高崎家は、屋号を柏屋▢(カネタマ)といい、本家柏屋▢(カネシメ)の7代目高崎四郎八(1795〜1865年)が分家して創立した家です。本家のカネシメは詩人、歴史学者として有名な頼山陽(らいさんよう)が立ち寄ったこともある土地の豪商です。分家の創立時期や家督相続の時期は明確ではありませんが、少なくとも天保7年(1836年)よりは遅くない時期です。四郎八は、文政8年(1825年)から町年寄役を務め、翌年には大庄屋格に任ぜられています。カネタマは、嘉永(1848年から1854年)の頃には板場(絞蝋業)を経営し、明治6年(1873年)頃には醤油醸造業を営んでいました。放送作家として活躍した伊馬春部(本名:高崎英雄、1908〜1984年)は、カネタマの5代目として生まれました。新宿ムーランルージュ(大衆劇場)創立期の座付き作者となった後、ラジオ、テレビ、舞台などの脚本を手がけました。ラジオドラマ「向う三軒両隣り」「屏風の女」等は代表作のひとつです。また、地元の校歌も数多く作詞しています。屋敷地は、木屋瀬宿の西構口跡近くの改盛町に位置し、建物は街道に東面して建っています。江戸時代末期の木屋瀬宿図絵馬によると、屋敷地は遠賀川堤防下まで広がっています。建築年代は2階梁に残された墨書銘などから天保6年(1835年)と考えられます。建物は平成9年(1997年)3月に17ヶ月の修復工事を終え、江戸時代末期の大きな商家の代表的な宿場建築として蘇り、平成9年(1997年)4月から春部に関する資料もあわせて展示公開しています。屋敷のある木屋瀬(こやのせ)という地名は、かつてあった筑前福岡藩の鞍手郡(くらてぐん)木屋瀬村に由来します。明治22年(1889年)木屋瀬村・野面村・笹田村・金剛村が合併して、改めて木屋瀬村が発足しました。明治31年(1898年)木屋瀬村が町制施行して木屋瀬町となりました。昭和30年(1955年)木屋瀬町は八幡市へ編入されました。昭和38年(1963年)八幡市・門司市・小倉市・若松市・戸畑市が新設合併し、北九州市が発足しました。木屋瀬という地名は、近隣の寺社再建のために遠賀川の川辺に材木を集めたことに由来しています。中世に遠賀川の川港として成立し、江戸時代に長崎街道の宿場町の木屋瀬宿として栄え、筑前六宿の1つに数えられていました。赤間街道(内宿通り)の起点でもあり、西構口に追分道標があって、これには『従是(これより)右赤間道、左飯塚道、元文三年(1738年)』と刻まれています。宿場は東構口(消滅)から西構口(現存)まで約1100mの街道で、裏通りのない一本道は本陣付近で「く」の字に曲がり、家並みはのこぎり歯状に建てられていました。これは、「矢止め」と呼ばれ、敵が攻めてきたときにそのくぼみに隠れたり不意をついて攻撃したりするために配慮されたものと言われています。宿街道のほぼ中間には、代官所、本陣、脇本陣、郡屋、人馬継所などの施設と共に14、5軒の旅籠がありました。