関門海峡を望む静かな櫛崎城。
櫛崎城跡の特徴
毛利秀元が整備した長府6万石の櫛崎城跡の石垣が綺麗に復元されている、
天守台の石垣は新しく、展望台からの海や公園の眺めが素晴らしい場所です、
子供の頃の遠足の思い出が蘇る静かな環境で、花見にも適した公園です、
串崎城は慶長7年毛利秀元によって築城され、わずか13年後の元和元年(1615)幕府に一国一城令によって、自ら城割りを行い廃城としその後は城の西側に居館を構えここを本拠に幕末まで寺領である長門豊浦郡を支配した。串崎城大内氏の家臣、内藤隆春(ないとうたかはる)の居城として使用されていました。『温故私記』に「永禄12年(1569)9月中旬、内藤左衛門尉隆春の臣勝間田土佐守盛道は長府櫛崎の城に隆景より籠置けける處に」とあり、内藤肥後守盛貞が大内氏に属して以降、代々内藤氏がその職を世襲したことから、16世紀に入って内藤氏によって近世串崎城の基礎が築かれたと考えられています。1600 年(慶長5年)関ヶ原の戦いにより、毛利氏は防長二州に減封され現在の山口県萩市に本藩を構えます。そして同年11月2日現在の下関市長府に支藩として長府藩が成立します。初代藩主は毛利秀元。当時36200石(後に5万石)。居城として串崎城(雄山城)を再築しました。しかしながら、1615年(元和元年)閏6月13日、幕府による一国一城の令により、山口高嶺城・岩国横山城と共に串崎城の城郭もとり壊されました。この櫛崎城の1部に葺かれていた大鬼瓦が下関市立長府博物館に保管されており、鬼瓦には「与州住玉井三良兵作」「慶長十九年(1614)五月吉日」の銘が記されています。 串崎城に使用されている軒平瓦は尾道市・浄土寺、厳島神社・千畳間、広島城、鳥取城に使用されています。串崎城に使われていた鬼瓦には、慶長19年(1614)與州住玉井三良兵作のヘラ書きが残されています。
公園として整備され、駐車場もあります。天守台付近の石垣は復元ですが関門海峡が見渡せ幕末の緊張感を感じられます。駐車場の東側に続く石垣など現存する石垣も残っており、周辺が広く城域とわかります。豊功神社には毛利氏の家紋が入っており、長府藩を体感できます。
本丸付近の石垣がどの程度当時のままかが不明で、城跡としての趣きが薄い。クジラのオブジェは早々に撤去した方が良い。
素晴らしいロケーションで三方を海に囲まれた、要害堅固な城であったと想像できました^^復興してほしい史跡でした🍀
関門海峡が見渡せるちょっとした展望台。無料駐車場から徒歩2-3分。本格的な展望台や夜景なら火の山や夢タワーになりますが、日の出や日の入りはこちらでも綺麗に見えそうです。綺麗に整備されているのも高ポイント。
櫛崎城は、中世には大内氏の重臣で長門守護代の内藤隆春の居城であったと伝わっています。関ヶ原の戦いの後、慶長7年(1602年)長門国西端の豊浦郡を治めることになった長府藩初代藩主 毛利秀元が再築して居城としました。天守台には天守閣が築かれていたとされていますが資料が残っていないため詳しいことはわかりません。元和元年(1615年)徳川幕府の一国一城令により櫛崎城は破却されました。それにともない、藩主の居所と藩庁を現在の県立豊浦高校の敷地一帯に移して領国経営を行いました。廃城後も天守台は関見台と呼ばれ、幕末には砲台が築造され、海峡を航行する外国船の見張り場として攘夷に備えました。しかしながら、元治元年(1864年)下関戦争で真っ先に攻撃され、またたく間に破壊されました。
周防灘を一望出来る下関の隠れた観光スポットです。近くには日本一の初日の出が拝める神社海岸に降りると運が良ければスナメリに会えるかもしれません目標は沖合の海面にある浮き旗付近…
城自体は関見台公園にある。とは言っても遺構はほぼ残っていない。石垣が残っているくらい。海が見渡せる急峻な場所に作った意図を感じる。
石垣が綺麗な城跡です。展望台から対岸に停泊中の最新鋭のケーブル敷設船「KDDIケーブルインフィニティ号」が見れました。
| 名前 |
櫛崎城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| HP |
https://chofukankou.com/%E6%AB%9B%E5%B4%8E%E5%9F%8E%E8%B7%A1/ |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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周辺のオススメ
駐車場無料の公園。山の上に石垣が整備されていて、天守台からは海まで見渡せます。大きなクジラの廃墟は昔の水族館のなごりだそう。