天保十三年の石祠巡り。
浅間塚の特徴
西武新宿線の高架が近くにあり、訪問が楽しいです。
高架工事の影響で立ち寄りやすさが変わるかもしれません。
改修工事中でも、再訪を楽しみにしている方が多いです。
2025.8.18東村山市指定史跡塚は一見円墳状をしてますが、実測の結果は長方形で、規模は東西27.5m、南北24m、高さ5.2mです。覆土は黒色を呈する有機質の腐植土のみで、古墳としての遺物はまったく見られなかったようです。この塚は富士塚でも古墳でもなく、何のために造られたのか明らかになっていません。頂上には「村支小社浅間神社」の石祠があり、かつては神社としての取扱いを受けていて、徳川入府以後、明治9年(1876)までは徳蔵寺が管理していたそうです。現在は不明。階段や外灯もあるようですが、現在草か木か判らないくらいに人の身長より高い雑草が蔓延っています。入っていけません。周りも工事中なので、外周から覗き見る事も出来ない状態です。
頂部に富士山信仰に関わる浅間神社の祠があるが、富士塚ではないと言う。塚は長方形で東西約27.5m、南北約19m、高さ約5.2m。1754年(宝暦4年)の徳蔵寺(諏訪町)の文書に、「富士免御除地」「別当徳蔵寺」とあるのでその頃には塚は存在していたそうだ。お隣の境塚(入会地の境界を示す塚)とは異なり、何のために築かれたかは不明で、浅間神社は後々の1842年(天保13年)に西宿(現諏訪町1・2丁目辺)の方々が建立したものである。嘗ては府中街道から参道が伸びていたと言う。西武線立体交差化もあり、すっかり周辺環境は変わってしまった。別当:神仏習合時代、神社を管理した寺院*夏場は御覧の通りの草茫々状態でマダニ注意。ご訪問は冬場や春先が良いかもしれない。
西武新宿線の高架が完成すると、眺めが悪くなりそうです。
西武線の高架工事が終わってからもう一度行ってみたい!
ぶらっと散歩をしていたらみつけました。小山の上にある、とてもちいさな塚です。場所も変な所ですし、わざわざ行く必要はありません。ただ、近くの歩道橋からは電車がキレイに見えました。
こんな所に!失くなりそう?心配。
西武東村山駅改修工事中のためフェンスに囲まれています。
| 名前 |
浅間塚 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| 評価 |
3.4 |
| 住所 |
|
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当地の頂上には、天保十三年(1842年)に建立された石祠が現存する。どうやら「村支小社浅間神社」との銘が刻まれていたらしいが、私はそれを確認していない。この石祠は、旧野口村西宿(現在の諏訪町一・二丁目)の住民によって建立されたと伝えられている。一時、諏訪社境内に移された様であるが、現在は、こちらに戻されたらしい。なお、『狭山之栞』や『新編武蔵風土記稿』には、この石祠に関する記述は見当たらない。浅間神社は、形式的に、塚全般(古墳、池を掘った際の残土、富士塚、一里塚等。)の上に設置されることが多い。これは弁財天社が池の小島に祀られる形式が多いのと同じ話であろう。他方、富士塚は富士山を模して築かれることが多く、烏帽子岩や人穴などの富士山の霊場や名所等の構造を備えることが多い。現地の案内板には、この塚は富士塚ではないと明記されているが、その表現がかえって「富士塚である可能性もあるのではないか」との疑念を抱かせる様に思われる。そうでないのなら、はじめからそう書かない方が良いのではないか。また、案内板ではこの塚の目的は不明とされるが、境塚の一つと見るのが自然に思われる。話は江戸前期に遡り、川越藩主・知恵伊豆こと松平伊豆守は、新興大名として急増する家臣団を養うため、狭山丘陵において陸田開発を推進した。しかし、この開発は入会地を陸田に置き換えるものであり、また、新興の百姓達は周辺の入会地を利用する様になったため、元々その地にいた百姓の入会資源を奪う形となる。この結果、旧百姓側及び新百姓側又は村々同士での入会地を巡る争論(所謂、秣場争論。)が生じた。元禄二年以降、この利害対立を調整するため、評定所の裁定により、村境に境塚が築かれる様になる。実際に、久米川村と野口村の境には、五百九十三間の間に九基の境塚が設けられたという。『清瀬・田無・保谷・東久留米・東村山史跡散歩』では、この浅間塚を境塚の一つと位置づけ、後に浅間神社として転用された可能性があると指摘しているが、さもありなんという話である。