仏の慈悲が宿る、2.3mの地蔵。
仏の山峠の地蔵尊の特徴
拝殿に鎮座する大きな石地蔵は2.3mの迫力を誇ります。
一枚岩の花崗岩で柔らかさと優しさを漂わせています。
明治20年の工事によって現在の位置に安置されています。
拝殿の中に大きな石地蔵が鎮座していました。地蔵堂が小さく窮屈そうですね。駐車場は、車一台分のスペースは何とかありましたが厳しいと思えます。峠道にしては交通量が多くうっかりすると轢かれます。気をつけてください。一見の価値ありです。
高峯・仏頂両山間でで採れた花崗岩で造られた「一枚岩の花崗岩を丸彫りにしたため、柔らかさと優しさを漂わせ、石工の妙技のこもる顔は、仏の慈悲心を醸し出している」と記されている驚くのはその大きさで2.3m、あまりの重さで動かすことができず、背を割り削ったと云われる明治20年5月、仏の山峠の開削工事により現在位置に安置されている(説明板より抜粋)
| 名前 |
仏の山峠の地蔵尊 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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峠のお地蔵様ですね。できた経緯からして重要なお地蔵様です。ここは、栃木県と茨城県の県境であり、県道1号線(宇都宮笠間線)という超重要幹線道路です。それは歴史的にもそうです。鎌倉時代に、宇都宮を治めた下野宇都宮氏の宇都宮時朝(うつのみやときとも:元久元年5月5日(1204年6月4日)~文永2年2月9日(1265年2月26日))が笠間へ移り、笠間時朝(かさまときとも)と名を改めて、この地を治めました。その後、江戸時代には、笠間側では野州宇都宮街道、宇都宮側では水戸街道と呼ばれ、この道を通り笠間から結城街道(現、国道50号線)を通って宇都宮と水戸とを人々が往来していた記録があります。当時の宇都宮⇔水戸間の最短ルートだったようです。江戸時代前期頃には、笠間の箱田(はこだ)等で陶土が見つかり陶芸が盛んになりました。栃木県の益子(ましこ)でも幕末の頃に、陶土が発見されて、陶芸家がこの地に移り住むようになりました。益子の陶土はその後、益子町の東の地域(新福寺等)からも発見されるようになり、今ではさらに東の栃木県茂木町(もてぎまち)の飯(いい)などでも発見されています。茂木町の飯と笠間市の箱田は、この峠付近の尾根を介してほぼ隣り合わせの関係です。どうやら、ココらへんの領域には広範囲に陶土が埋蔵されているようです。ここに鎮座するお地蔵さんの石も、この周辺でとれた花崗岩です。稲田石(いなだいし:稲田みかげ石)真壁石(まかべいし)を中心とする筑波山塊の花崗岩は有名です。明治頃から東京などにも多く運ばれ、近代化の道を歩んでいた当時の日本の多様な洋風建築物などの材料になりました。花崗岩の埋蔵量は日本一だそうです。お地蔵様のおかげで、この辺の地下には、多くのお宝があるようです。