格式高い朝倉神社の静けさ。
朝倉神社の特徴
斉明天皇伝説が残る高知市の歴史的な神社です。
本殿は江戸時代前期築造の国の重要文化財です。
JR朝倉駅から徒歩10分でアクセスが可能です。
土佐国二宮というだけあって、非常に格式高く、厳かな雰囲気の神社です。石段を上がっていくと現れる社殿(重要文化財)は、彫刻が細かく見応えがあります。周囲の木々に囲まれていて、境内に入ると空気がピリッと変わるような清々しい気持ちになれました。市内中心部から少し離れていますが、落ち着いてお参りしたい方にはぜひおすすめしたい場所です。
耳の聞こえが悪く,人間関係でも辛いことがあり1人で向かった。参拝してすぐ耳がプチッと聞こえ始めた。そしてしばらく境内にとどまらせていただきましたら、もっと聴こえるように動き始めました。今は耳どんどんよくなってます。人間のあたりも私に安心安全なものに。またいきたいです。
予想よりはるかに歴史のある神社で驚きました。社殿の彩色がきれいなことも良かったです。
静かで高い木が沢山ありいい神社でした。社務所を訪ね御朱印を頂きたい旨お伝えしましたが、今は腕が痛くて御朱印を書くのを辞めているそうでした。とても丁寧に対応して頂きました。御朱印を頂くのが当たり前のようになっている昨今、中には体調の優れない方もいらっしゃるかもしれないし逆にこちらが申し訳なく思いました。しっかりお参りして帰りました。
斉明天皇伝説が残る伊予朝倉地方を巡る中で、こちらも同伝説の地との事で、遠方より参拝しました。江戸から大正期にかけての狛犬が幾つかありどれも見事で、本殿も立派です。
古くからの山岳信仰の残る神社。風土記や日本書紀にも記載があるそうです。社殿は国宝に指定されているのだとか。
土佐國二之宮とされるお社です。流石に朝6時台に訪れたので、社務所はしまっており御朱印を授かることはかないませんでした。
歴史ある神社のようです。神社の後ろ側にある山が御神体だったと思います。駐車場もあります。参道にはびっくりするくらい大きな幹の気があります。夏祭りでは絵金の絵等見ることができます。
天気の良い日に参道を歩いていたら厳かな気持ちになりました。地元の方達に大事にされている神社なのが伝わってきます。車で行く時は道が狭いので注意が必要です。
| 名前 |
朝倉神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
088-844-1360 |
| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
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朝倉神社(あさくらじんじゃ)。高知県高知市朝倉。式内社(小)、土佐国二宮。旧県社。【祭神】天津羽羽神 天豊財重日足姫天皇【祭祀対象】神体山としての赤鬼山天津羽羽神(あまつははがみ)は、主に高知県の朝倉神社(高知市)に祀られる神で、土佐国風土記に登場する開拓神です。味鋤高彦根神(アジスキタカヒコネノカミ)の后神(きさきがみ)とする説もあり、天照大御神(アマテラスオオミカミ)と同神ではないかという説も存在します。資料によると、御祭神は、天津羽羽神と天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。天津羽羽神は天石門別神(天石帆別神)の子とされ、天豊財重日足姫天皇は第37代斉明天皇の和風諡号。創建は不詳。古くから『日本書紀』の斉明天皇西征伝説に比定する説が知られる。すなわち同書斉明天皇7年(661年)条によると、天皇は百済救援のため難波宮を出て西征し、伊予熟田津、娜大津を経て朝倉橘広庭宮に移ったといい、朝倉宮の造営には「朝倉社」の木を使用したという。これに対して当地の伝説では、当社後背の赤鬼山(あかぎやま、県指定史跡)の木を切って山麓に営んだのが、その朝倉宮であるとしている。そして天皇の死後、赤鬼山の神である天津羽羽神を祀る社殿に天皇の霊を合祀したと伝える。今日の通説では、『日本書紀』の記事に対して「朝倉橘広庭宮」は福岡県朝倉市山田または朝倉市須川、「朝倉社」は福岡県朝倉市杷木志波の麻氐良布神社に比定される。ただし、愛媛県四国中央市の村山神社など、四国にも関連伝承を伝えるところはある。当地でも斉明天皇伝説が色濃く残り、干娜大津・苅谷ヶ崎・橘谷(宮谷)・小屋谷・釣井元・除岩・張規(針木)・小磐嶽などの関連地名が残るほか、当社南方の鵜来巣山に斉明天皇の陵があるといわれる。現在の当社の俗称「木の丸様」もまた、赤鬼山から伐り出した丸木による俄造りの朝倉行宮を「木の丸殿」と称したとする伝説に由来する。また「赤鬼山」の山名は、斉明天皇崩御時に天皇の葬儀をうかがった鬼(『日本書紀』)に由来するとも、古墳に赤鬼が住んだことに由来するともいわれる。どちらにしろ、当社後背の赤鬼山は奈良県桜井市の三輪山などと同様に神の籠もる山(神奈備)として古代祭祀の信仰対象であったとされ、当地は古くから開けていたと考えられている。赤鬼山中腹からは弥生時代中期の土器が発見されているほか、南麓には古墳時代後期の朝倉古墳があり、当社の存在はこの赤鬼山を中心に成長した豪族に対比される。中世には、土佐国一宮の土佐神社(高知市一宮)御祭神の后宮とする説が生じて、土佐神社に次ぐ二宮に位置づけられたといわれる。古くは土佐神社と交替で国内祈願を行なったとも伝わる。ただし一般には二宮は日高村の小村神社とされる。江戸時代に土佐藩を治めた山内氏は当社を崇敬し、明暦3年(1657年)に第2代藩主山内忠義によって本殿(国の重要文化財)が、寛政8年(1796年)に第10代山内豊策によって幣殿・拝殿が再建されて現在に残っている。『南路志』によると、近世の社地は1反11代3歩、社領は2反であった。また別当寺は真言宗の朝倉山光泉寺良寿院であったが、現在は廃寺。明治維新後、明治5年(1872年)に県社に列した。摂末社として、荒倉神社、忠魂社、倉稲神社、八坂神社がある。とあります。