家康本陣跡で歴史探訪。
長篠設楽原古戦場・徳川家康本陣跡の特徴
徳川家康が布陣した壮大な戦いの舞台です。
東郷ケッターパークの近くに位置する便利なスポットです。
長篠・設楽原の歴史を感じながら巡れる貴重な場所です。
ルートが非常に分かりにくいので、東郷ケッターパークを目指して進むと良いかと思います。東郷中学校の脇にある「設楽原古戦場いろはかるた・ひ」の横に上に登る道があり、そこを進んで行くと東郷ケッターパークに着きますが、パーク内のマウンテンバイクコースをさらに上に進むと石碑が見つかります。長篠合戦の戦場には3つの台地があり、西から東に向けてそれぞれ、「弾正山」「信玄台地」「有海原台地」と呼ばれています。徳川家康公と武田勝頼公の本陣がそれぞれ弾正山と信玄台地に置かれ、その間の狭い平地が主戦場になりました。「信長公記」には、設楽郷は地形が1段くぼんでいるところで、敵から見えないように3万人を配置した。とあることから、織田軍は弾正山の裏側(西側)に兵を隠していたと推測されます。「信長公記」の記載はさらに続き、先陣はその国の衆が務めるため、徳川家康が「高松山」に陣を敷いた。とあります。現在は「高松山」という地名は残っていませんが、これは弾正山のことだと推定されています。現在、徳川家康公の本陣跡とされる場所は弾正山の中に2箇所あり、1つはこちらのスポット、もう1つは八剱神社です。特にこちらのスポットは長篠合戦の最激戦地・竹広から目と鼻の先で、よくこんな近くに本陣を構えたものだと驚きました。信玄公死去の際の武田家の混乱で一時的に盛り返しますが、元亀3年(1572)の信玄公の西上作戦から今回の勝頼公の侵攻まで、家康公は独立では武田軍に全く太刀打ちできが出来ず領土を席巻され、滅亡も意識していたのではないかと思います。よって、長篠合戦に向けた家康公の覚悟は相当のもので、この本陣の場所はその覚悟の表れだったのではないかなと思います。
長篠の戦いで徳川家康の本陣があった付近。案内が無いからよく分からん。
徳川家康が布陣したとされる場所合戦地と武田方の布陣地を見渡せる。
ここへは家康公物見塚の横にある東郷ケッターーパークというMTB用の練習コースの端にあるので、東郷ケッターパークから行くのが一番分かり易いです。
設楽原資料館近くで見つけました。武田軍をここからどんな気持ちで見ていたんでしょうか?感慨深い。
長篠・設楽原の戦いで徳川家康が武田軍を迎え撃つ為に神を置いた場所です設楽原決戦地からさほど遠くない場所にある徳川家康の本陣跡これって凄い事ですよね織田軍の陣地のはるか前…徳川家康軍はほんとに最前線に居たんだなとわかります。織田軍の陣跡は設楽原決戦地から結構遠いのに…敵はここに向かって戦ったと想像すると感慨深いです駐車場などはないので設楽原歴史資料館などから徒歩を推奨しています。
設楽原歴史資料館に駐車しました。歴史資料館を見学し、徒歩で武田勝頼の戦地本陣跡を見て設楽原に向かいました。連吾川の辺りに立つと1575年5月、川をはさみ両側の高台に陣を置き対峙した両軍の様子が容易に想像できます。高台を降りた場所に馬防柵を三段階に設置したとすると両軍は至近距離で対峙したと思いました。徳川家康本陣の前には竹広激戦地が広がってます。鉄砲と弾数で武田軍を上回る連合軍は弓も上手に使ったことだと思います。川から少し離れ勝頼の戦地本陣があった台地側の人家や道の傍ら、畑の中に山県昌景や甘利信康ら武田の武将の墓碑があります。退く時に命を落としたと想像できます。それぞれ手厚く葬られ花が手向けられてました。
八剱神社が徳川家康本陣跡。断上山古墳群10号墳が神社の裏山にあるそうです。
| 名前 |
長篠設楽原古戦場・徳川家康本陣跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0536-29-9393 |
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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場所が分かりづらいですが、ケッターパークというマウンテンバイクコースの敷地のなかにあります。家康本陣は丘の南端に位置しています。勝頼はこの付近を突破し、織田徳川軍の背後に回り込むことに勝機を見出していたようで、織田徳川連合軍としてもそのリスクを考慮したからこそ、家康がここに陣取ったのではないでしょうか。