歴史の舞台、甲浦で発見!
江藤新平の遭厄記念碑の特徴
江藤新平の遭厄記念碑は歴史の息吹を感じる史跡です。
甲浦小学校の近くに位置し、平和塔境内にあります。
司馬遼太郎の作品にも登場し、訪問者に深い歴史を教えてくれます。
佐賀の乱は新政府軍に鎮圧され、江藤は薩摩士族の挙兵を懇願する為に明治6年の政変により、共に下野した西郷隆盛を訪ねる。鰻温泉(現指宿市)で湯治をしていた西郷が申し出を断った為、九州から四国に上陸。土佐の林有造らに武装蜂起を呼びかけるが、相容れられなかった。そこで上京して岩倉具視に直接会い、陳情を画策。土佐を脱出して阿波へ入ろうとするが、甲浦で捕縛されて佐賀に送還された。当時、手配人として江藤新平の写真が出回っていた事から、速やかに捕らえられたと言われているが、この指名手配制度は司法整備を進めた 江藤新平自身が考案したものであり、皮肉にも被適用者第1号になったと言う。
甲浦小学校のかたわらの平和塔境内に立つ標石。1875年(明治8年)佐賀の乱に敗れた江藤新平は徳島に逃れる途中この地で捉えられた。
司馬遼太郎の歳月を読み訪問しました。案内板が日焼けしてしまい、読むことができませんでしたが、とても感慨深いものがありました。周辺の海沿いもとても気持ちの良い土地です。
| 名前 |
江藤新平の遭厄記念碑 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.6 |
| 住所 |
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佐賀の乱で敗れ、逃亡して甲浦の地で捕縛されて佐賀に連れ戻されさらし首になった江藤新平はこのあたりで捕まったことを示す標が建つ。甲浦といえば土佐日記で高知の赴任地からの帰国もここから船に乗り京に戻るように、今でこそ静まり返った港町だが、古代から都への最短ルートであったことを思い起こさせる。江藤新平といえば佐賀から脱藩して京都に2ヶ月ほど滞在していた事があったから、逃げて方策を講ずるのはかねてより得意技なのだろうが、その期間に撮影した不貞腐れ顔の自画像が説明板に残っている。そして明治初期の岩倉使節団で伊藤博文や大久保利通が洋行してる間にも、江藤新平は佐賀で当確を表すきっかけとなった蘭学や欧州の研究の上で温めた制度を次々と実行に移し、それが警察制度やカメラ導入した指名手配制度であり、皮肉にもこの写真で捕縛されてしまう。さらには司法制度も三権分立の理念の下で築いたが、自身の裁判には公平な裁きにはならずに41歳の生涯を終える、その直前の旅路を思うとシンペイ、早まるなよって下野した頃の彼に言いたい。とはいえ人は誰しも時代の中で生きるもの。貧苦から出世し自分の利益だけを考えられるような人ではなかったのだろう彼を偲ぶ石碑が立ち尽くす。