心洗われる忌部神社の静寂。
忌部神社の特徴
NHKのゆく年くる年の舞台にもなった神社です。
皇室に献上されるあらたえの麻布が織られています。
行くと心が洗われる、静かな山あいの神聖な場所です。
徳島県吉野川市山川町忌部山に鎮座する忌部神社(いんべじんじゃ)。これがまた急な忌部山の中腹に社殿が立っていて、参拝するのに一苦労しました。阿波国の古代祭祀を伝える由緒ある古社として知られています。主祭神は、天日鷲命(あめのひわしのみこと)です。天岩戸神話で穀(カジ)や麻を用いて祈祷用の和幣(にぎて)を作った神様で、古代に麻や織物を司った忌部氏の祖神として知られてます。創建は非常に古く、阿波忌部氏の拠点として信仰されてきたと伝えられています。「延喜式」では阿波忌部(あわいんべ)が天皇即位の大嘗祭に際して、神服(かむみそ)としての麻で織った麁服(あらたえ)を調進することと定められています。その忌部の末裔が三木家とされていて、平成・令和の大嘗祭では、徳島で栽培された麻がこの忌部神社で織られ、神事が行われています。吉野川を眺める風景はとても美しく、周囲には豊かな自然が広がっていました。謎が多い阿波忌部文化と古代信仰の歴史を感じられる、めちゃくちゃ荘厳で神聖な雰囲気漂う神社でした。
山瀬駅から徒歩で20分強、参道の階段は急で、所々石がグラついていますが景色はとても良いです。足元が不安な方は遠回りですが車道を言ったほうがいいと思います。
外回りの仕事で時間が空いたので訪問してみました。あらたえ、大嘗祭、という言葉は聞いた事が有ったので、看板?の説明を全て読んでみて記憶の点と点が繋がったような気がします。参拝した後は憑き物が取れたような清々しさがあります。おすすめです。
JR徳島線の学駅と山瀬駅に表示を山側に入っていくと道路がだんだん道が細くなり、対向が難しくなってくる。参道を左に回り込むと山道を上がりきると開けた駐車場が広がっている。駐車場の下に小ぢんまりとした社殿が建っている。まだ整備されて歳月は経っていないと思われる拝殿は、白地の壁に朱色の欄干が映える。麁服の貢進が行われた令和元年大嘗祭があったからだろう。忌部神社の額の上には菊の紋章が掲げられている。祭神は天日鷲命は阿波忌部氏の祖神で、古代より天皇の即位儀礼の大嘗祭に麁服などを貢進し、平成・令和の大嘗祭でも納められている。この地から剣山に上がる手前の木屋平村の忌部氏の末裔に当たる三木氏が麻を育て麁服を調達する。忌部神社から山道を上がっていくと昔社殿のあった黒岩磐座が有り、もう少し上がっていくと忌部山古1号墳から5号墳が分布しており、今回時間がなかったのでそこまで足を伸ばせなかったが、現代まで連綿と続く歴史の黎明の痕跡を見てみたいと思った。
ここに来るまでにいろいろな神社に行き着けなくて心が疲弊していました。心配で心配で(アルファードで行ける道なのか)散歩中のお姉様方にお聞きしたら、多分行けるよ!と。その話を聞いていたおじ様も大丈夫だよと。安心して泣きそうでした😭ありがとうございました。そこからまたしばらく舗装された山道を上ってめでたく到着。正直な話、こんなところで大嘗祭の麁服をお渡しする儀式をしてるなんて想像もつかない小さな神社です。なんの変哲もないと言ったら神様に叱られますが…なので、ここが、正真正銘天皇家とゆかりのあるとても大事な場所、と言うことがわかりますね。何十年に一度だけ使われる神社。日本人なら一度参拝して大嘗祭に想いを馳せるのもいいと思います。なぜ、阿波のここなのか…
御祭神 天日鷲命。式内社(名神大社)の論社です。本殿は切妻造平入の板葺屋根です、ここで大変なことがありました、賽銭箱の上にお賽銭を出そうとスマホを置き参拝したところ、なんとすっぽりとスマホが賽銭箱に落ちてしまいました、境内に連絡場所などの記載もなくネットで調べようにもスマホは賽銭箱の中、賽銭箱には当然二重のカギが懸けてあり、仕方なく箱をひっくり返して中からスマホを取り出しました、防犯カメラもありドキドキしながら出しました、しっかりとお賽銭ももとに戻して、書置きを残して帰りました。
御祭神 天日鷲命。式内社(名神大社)の論社です。本殿は切妻造平入の板葺屋根です、ここで大変なことがありました、賽銭箱の上にお賽銭を出そうとスマホを置き参拝したところ、なんとすっぽりとスマホが賽銭箱に落ちてしまいました、境内に連絡場所などの記載もなくネットで調べようにもスマホは賽銭箱の中、賽銭箱には当然二重のカギが懸けてあり、仕方なく箱をひっくり返して中からスマホを取り出しました、防犯カメラもありドキドキしながら出しました、しっかりとお賽銭ももとに戻して、書置きを残して帰りました。
忌部神社(いんべじんじゃ)。徳島県吉野川市山川町忌部山。式内社(名神大)論社、旧村社(一時国幣中社)。別名は山崎忌部神社(やまさきいんべじんじゃ)。主祭神:天日鷲翔矢尊。資料によると、『古語拾遺』の造祭祀具斎部の段に、天太玉命の孫神である天富命が、穀の木や麻を植えるのに適した地を求め、日鷲命の孫を率いて阿波国に至り、定住した阿波の忌部氏が大嘗祭に木綿や麻布などを貢納するようになったと記すが、以後も大嘗祭には同氏の織った荒妙御衣(あらたえのみそ)を献上するのが常であった。また、当神社後方の「黒岩」と呼ぶ山腹に6世紀後半の築造と見られる5基の円墳からなる忌部山古墳群があり、これは6世紀前後に忽然と現れたもので、当地に移住してきた氏族集団があったのではないかと指摘されている。社伝によれば、神武天皇2年2月25日に、阿波の忌部氏が祖神である天日鷲命を祀ったのに始まり、もとは上述「黒岩」に鎮座していたと伝える。古来から氏神として阿波忌部氏から、また大同元年(806年)には封戸20戸が充てられていた(『新抄格勅符抄』)ので、朝廷からも尊崇されたたようであるが、詳しいことは不明である。明治3年(1870年)村社に列したが、上述のように近世以降所在不明とされたために、翌4年に「所在地不明」のまま国幣中社に列格した式内忌部神社が、国学者小杉榲邨の考証によって当神社に論定されたため、翌5年に国幣中社へ昇格した。しかし、式内忌部神社を主張していた美馬郡西端山(現 つるぎ町貞光)の御所神社からの反論があり、同7年(1874年)に改めて当神社を比定するという太政官布告が出されたものの、その後も激しい論争が続いたため、同14年(1881年)に御所神社を式内忌部神社に変更し、当神社は村社に戻ることとなった。ちなみに、御所神社比定に対し、今度は山崎側が反発したため、太政官による妥協策として徳島市内に新たに創祀されることとなったのが、徳島市二軒屋町の現忌部神社(式内社(名神大)の後継社で、旧社格は国幣中社である)。とあります。
忌部山にある、その名も忌部神社です。阿波の忌部氏が大嘗祭に木綿や麻布などを朝廷に貢納するようになったのが由来です。
| 名前 |
忌部神社 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| HP | |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
|
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綺麗に整理されており、気持ち良く参拝出来ました。参拝後に、急に風で国旗が3回程はためいたのが印象的でした。ありがとうございました。