伴若狭守盛兼の歴史探訪。
伴若狭守盛兼の墓碑の特徴
小牧長久手の合戦に関連する史跡です。
徳川家康の家臣の墓碑が位置しています。
歴史スポットとして訪れる価値があります。
小牧長久手の合戦で戦死した徳川家康の家臣伴若狭守盛兼の墓碑。徳川家康の家臣。何故ここに墓碑が?
2022年2月下旬に小牧・長久手の戦い関連史跡巡りで初めて行きました。床机石を目的に色金山歴史公園を訪れた際、こちらを知ることができました。説明板によると1584年、徳川の家臣であった伴若狭守盛兼は、長久手合戦にて戦死した。この墓碑は1824年、盛兼の弟の子孫で尾張徳川家の家中であった滝川吉十郎徳広によって、盛兼の領地であった遠州気賀の方に向けて建立された。約250年前の先祖の墓碑を建てる律儀さに感銘しました。
| 名前 |
伴若狭守盛兼の墓碑 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[土日月火水木金] 24時間営業 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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書により「伴若狭守盛兼の墓碑」をしらべてみます___________❶【参考 安昌寺史 1984年】【伴若狭守盛兼の話し】織田信長の家臣で、伊勢国亀山城に住んでいた。五郎兵衛と称して、織田信長 自刀の後は、家康 伊賀越えの時、自分は病気の為、使者を出して道案内をした。後、天正11年三河国に赴き、はじめて家康に拝謁して、「600貫」の采地を賜う。翌12年 「長久手の役」には、大河内源三郎政局(まさつね)と一緒に、井伊直政に従って戦い、「仏ヶ根(ほとけがね)」で戦死をした。安政7年8月、尾張藩士「滝川徳広」は色金山中腹に、領地の遠州気賀の方に向けて、石碑を建立した。また、安昌寺へ位牌を祀り、伴氏の冥福を祈った。気賀では6000石封ぜられた。【墓石の話し】[正面]「伴若狭守盛兼墓」[右側]「文政七年甲申閏八月 弟伴清右衛門弘資七代 瀧川吉十郎徳廣謹立」(文政7年(1824年)甲申の年の閏8月に、盛兼の弟である伴清右衛門弘資から数えて7代目の子孫にあたる、瀧川吉十郎徳廣が謹んで建立した。)[左側]「岡崎御譜代遠江気賀領主采地六千石 本国近江人天正十二年甲申四月九日 長久手之役戦死於彼地」(徳川家康公の岡崎譜代であり、遠江国気賀の領主として6000石の領地を与えられていた。生まれは近江国の人である。天正12年(1584年)4月9日の長久手の戦いにおいて、その地で戦死した。)