金比羅参りの歴史、照らす灯籠。
太助燈籠(金毘羅講燈籠)の特徴
京極大橋を望む場所に立つ、緑青の美しい灯籠です。
江戸時代のこんぴら詣りを思い起こさせる、歴史的な証人です。
港のシンボル的存在で、花火大会の撮影に最適なスポットです。
丸亀のうどん巡礼中に金毘羅宮関連の灯籠に出会した。内部空洞は鳩の巣となっていたが造形美。
あまり詳しい事は分からないけど、観光スポットだと聞いて、やってきました。地元のスポットなので、盛り上げて、観光客に来てもらうように、地元の人、丸亀役所も頑張ってください。
丸亀市は、その昔金毘羅宮の参拝客で栄えた港街。天保の時代から船の往来を支えた青銅の灯籠。近くから見上げるとその迫力に圧倒されます。また、海の景色も良く、昔の景色を心に浮かべてみるのも観光には良いかも。
ここに行こうと思って行かなければ、中々たどり着くこともないと思う。近くに住んでいたことがあったが、そういえば、、というレベルだった。今回初めてじっくりと鑑賞。いやこれ江戸時代のものでしょ?どんだけのカネかかってるんだよっていう豪華さ。金毘羅船船で歌われた頃の栄華がよくわかる。対岸にも設置されていたが戦時の供出で失われてしまったとか、、本当に罪作りな戦争だ。丸亀市もこんだけ立派なものがあるのになんでもうちょっと上手く宣伝出来ないのかなあ。正直、日光の灯籠とかに引けを取らないと思いますよ。
京極大橋をのぞむ波止場に緑青で一際目立つ意匠の灯籠です。その昔、江戸時代に金毘羅参詣がブームになり、金毘羅宮までの街道の始点にあたるこの新堀湛浦の港湾整備が行われ、江戸講中約1350名の寄付を集め1830~44年に3基建立されました。太助灯籠の太助とは、その寄付額が一番多かった塩原太助の名に因んで呼ばれたそうです。今風に言うと、瀬山登さんが東京の金毘羅参詣メンバーシップで燈籠建立クラウドファンディング行って支援最高額の塩原太助さんへのリターンが…戦後残った1基を昭和41年に補修、のちに復元、昭和末期に高さを一段上げ、今の姿に至ります。
「丸亀市:金毘羅講燈籠」2021年12月のバイクツーリングで立ち寄りました。碑文に書いてある文字は以下の通り。金毘羅講燈籠(太助燈籠)の碑文丸亀は金毘羅参詣客の上陸地で、門前みなととして栄えてきた。金毘羅講寄進のこの青銅燈籠は、天保九年(一八三八)の製作で、髙さ五・二八メートル、蓮華をかたどり八角形である。ここの船溜り(新堀湛甫)を築造するとき、当地の金毘羅宿の主人、柏屋団次らが発起で江戸に行き、江戸および近国で千人講を作り、江戸本所相生町の富商塩原太助の奉納金八十両をはじめ、千三百五十七人が出し合った金でできた信仰と、航路標識をかねたもので、江戸講中の代表八十両の最髙額寄附者の名をとどめて、一名「太助燈籠」とも呼んでいる。天保の昔、対岸に二基、福島湛甫に二基建てられたが、戦時中の金属回収で姿を消し、この一基だけが残っている。金毘羅街道の「一の燈籠」である。
歴史ある灯籠。
電車の時間まち暇潰しにはいいかも。
海風が気持ち良くまさに風光明媚ぼちぼち歩き散歩三昧が贅沢でした。
| 名前 |
太助燈籠(金毘羅講燈籠) |
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| ジャンル |
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| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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金比羅参りの海の玄関口だった丸亀港の繁栄ぶりを今に残す貴重な灯籠です。他にも数基の灯籠があったそうですが、先の大戦で金属類回収令で壊されてしまったそうです。