南北朝時代の古墳跡探検!
冨士塚(提灯塚)の特徴
1330年頃に築造された歴史深い塚である。
南北朝時代の戦死者を葬ったとされる歴史的スポット。
古墳のような外観が印象的で訪れる価値あり。
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ぱっと見、古墳みたい。
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| 名前 |
冨士塚(提灯塚) |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.4 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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調べてみると、1330年頃の南北朝時代のもので、出の澤の戦いのときの戦死者を葬った塚ではないか、とある。又、この塚の周囲を息もつかずに3回まわると、塚の中から提燈(ちょうちん)がヌッと出るというのでこの名がついたといわれる、と「武蔵の伝説」という書に紹介されている。___________________1330年頃の南北朝時代、鎌倉攻めの時の話。鶴間原で戦闘での、其の時の戦死者の墓ではないのだろうか、とある。❷【参考 南北朝時代 1922年】提燈塚(1922年の書による)新田義貞の鎌倉攻めの時や その後の新田義宗の鎌倉攻めのとき、軍は上州(群馬県)より武蔵に入り、入間川、小手指(こてさし)・府中・分配河原(ぶばいがわら)・関戸 を行軍しその辺りまでの合戦は明らかになっているが、それより南側、鎌倉に至るまでの道筋、合戦は明らかになってない、という。「本町田村北側の低地にして澤邊なり、それより南に平野相連なりて藤澤に至り、これを鶴間原という。之すなわち古戦場なるべし」とあり、「提灯塚なる塚あり、これあるいは当時戦死者を埋めしものか」とある。ー・-・-・-・-・-・提燈塚は南北朝時代の史跡であると、推察されているようだ。❸【参考 郷土科学 1931-09】「上州方面よりの第一の関門であった関戸の戦いに、もし鎌倉勢が敗戦すれば必ず本町田の出の澤あたりにおいて、これを防いだものである。そのなごりとして今日本町田殿城とか、田中義成博士が研究発表された出の澤古戦場とか、又提燈塚等の史跡に富んでいる」とある。ー・-・-・-・-・-・-「出の澤付近にある提燈塚は当時の戦死者を埋めたものだと伝えられ、尚、この戦に負傷して土着した武士もあるといふが明らかではない。付近の山野から当時の刀創(とうそう)矢の根等が、発掘される」とある。❹【参考 東京府郷土教育資料 郊外篇 昭和5年(1930年)】出の澤の戦建武2年7月22日 北条高時の子、北条時行(ときゆき)信州に兵を起して武州女影原(おなかげはら)、小手指、府中、関戸の各所に足利の兵を破り5萬の大軍破竹の勢いで攻め寄せた、という。足利尊氏の弟の直義に大軍を率いて敵を出の澤に向かへ、本陣を上野原においてこばんだが、手勢多く打たれて遂に鎌倉に向かってしりぞいた。出の澤付近に「勝負ヶ谷」の地名が残っているのを見ても其の いくさ の激戦の様がしのばれる、とある。“「出の澤付近にある提燈塚は当時の戦死者を埋めたものだと伝えられ、尚、この戦に負傷して土着した武士もあるといふが明らかではない。付近の山野から当時の刀創(とうそう)矢の根等が、発掘される」とある”___________町田市本町田にあるとあるので、この場所の事ではないのかもしれないが参考に記しておく。❶【参考 武蔵の伝説 1977年】提燈塚(1977年のしょによる)この塚の周囲を息もつかずに3回まわると、塚の中から提燈(ちょうちん)がヌッと出るというのでこの名がついたといわれる。[場所] 町田市本町田。