恥ずかしヶ峯に誓う祈り。
勝占神社の特徴
勝占神社は恥づかしヶ峯と呼ばれる場所にあります。
祭神として大己貴命が祀られ、源義経の伝承が残ります。
山の中腹に位置し、古道を登る感動を味わえます。
式内社で正一位の神社です。注目すべき主祭神は事代主と玉櫛姫です。特に玉櫛姫は徳島県神社誌に記載されているのはここ一社のみです。この二人の娘が神武天皇の后の姫蹈鞴五十鈴姫命です。
鳥居から参拝しました。長く急坂な参道をくねくね登ると、更に石階段を登り、ようやく到達です。すごく疲れました。大変でしたが、清々しく参拝できました。
静かにお祈りさせていただきました。2024.09.29
勝占神社 =かつらと読む御祭神は大己貴命、事代主命、須勢理比賣命、少彦名命、玉櫛姫で中山一帯は「恥づかしヶ峯」と呼ばれ、長ノ國祖神一族(大己貴命\u003d大国主命)が眠る陵墓群であると伝承が残る。国譲りさせられたから恥づかしケ峯なのか?は不明。この「勝占」「勝浦」の由来は、「豊玉姫神」を信仰する「阿曇系海洋民」(あずみ系北九州の安曇族) がイ変化訛ってイズモとなったのか?の信仰する聖樹「桂」(かつら)に拠るものと考えられる。
素晴らしい神社です。
小高い山の麓にある神社。コロナ前は近くの病院の職員が時々朝に大挙して参拝していた。やや急ではあるものの10分ほど歩いて登ればたどり着ける。車で上がれる道もある。特にこれといった特徴は不明だが、かなり歴史のある風情の本殿。手水場の水は止まっている。訪れる人は少ないけど、いつもきれいに整備されている。
想像していたより高い所にありました。
勝占神社かつらじんじゃ徳島県徳島市勝占町中山26祭神大己貴命スサノオが祭神であった源平合戦の時、源義経が戦勝を祈って参拝したとの伝承があります山の中腹にあり古道を登って行きます。
徳島市勝占町に鎮座する延喜式内社祭神は大己貴命、事代主命、須勢理比賣命、少彦名命、玉櫛姫勝占神社が鎮座する勝占町 中山一帯は「恥づかしヶ峯」と呼ばれ、長ノ國祖神一族(大己貴命u003d大国主命)が眠る陵墓群であると伝承されている。
| 名前 |
勝占神社 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
4.4 |
| 住所 |
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勝占神社(かつらじんじゃ)。徳島市勝占町中山。式内社(小)、旧郷社。【祭神】大己貴命(配祀)事代主命 須勢理姫命 少名彦命 玉櫛姫命 大山祇命資料によると、創祀年代は不詳。中山という65mの小丘の中腹に鎮座する。古代には、この中山は海に突き出た半島で、当地は、出雲系海人の支配した土地だったという。一帯は往古から「恥づかしヶ峯」と呼ばれ、長ノ国祖神一族が眠る陵墓群であると伝承されている。実際附近には、徳島最大の渋野古墳がある。長ノ国祖神ということでいえば、阿南市長生町宮内には八桙神社があり、勝浦郡勝浦町沼江には生夷神社がある。当社の御祭神は大己貴命。現在までに事代主命・須勢理姫命・少彦名命・玉櫛姫命・大山祇命を配祀している。爾来、中山をとりまく篠原郷篠原庄の氏神となり、古くは領主たる京都仁和寺より神田7町5反の寄進があったという。平安時代末期、平家の重鎮である田口一族の尊信を集め、元暦元年(1185年)3月10日、屋島へ向かう途中の源義経が、当社へ参拝し、武器を奉納した。義経が参拝した理由として、「勝を占める」という社号の縁起を気に入り、これにより士気を鼓舞したとの伝説もある。あるいは蒙古来襲の国難に当たって、当国代官司の必勝祈願があり、弘安4年(1281年)正月に造営の記録が残る。戦国時代末期の天文19年(1550年)5月には阿波国守護細川持隆が社殿を建立したという。江戸時代になり、本殿北の脇社だった金比羅祠は、徳島藩祖蜂須賀家政の懇請で城府鎮護のため、二軒屋の勢見に遷宮した。家政ら三代の社参があり、江戸時代後期の享和2年(1802年)12月には11代徳島藩主蜂須賀治昭が造営したという。近世を通じて、杉尾神社(杉尾大明神)と称し、素盞嗚尊を祀ったとも。明治になり、郷社に列し、明治8年(1875年)には現社号に復称。境内社に、松熊大明神、金比羅宮、袋振宮、秋葉神社、地神社などがある。ちなみに、過去に杉尾大明神と呼ばれ、境内に松熊社がある神社に、八倉比売神社がある。とあります。