コスモス畑と恭仁宮跡。
恭仁京大極殿址の特徴
恭仁京大極殿址では、コスモスが美しく咲いています。
秋晴れの天気の中、心地よい気分転換ができます。
短期間の移設で残る大極殿跡が魅力的です。
短命の都・恭仁京の中枢(恭仁宮)があった場所とされ、顕彰もされてきたが、当時は科学的根拠に乏しくまずは1957年に「山城国分寺跡」として国史跡に指定。70年代からいまに至るまで続く発掘調査が謎を解き明かしつつあり、2007年には史跡名称が「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」に逆転変更。山城国分寺は廃都後の宮跡に建てられたから、まあ、当然といえば当然か。明治時代には大極殿基壇上に役場が建っていたといい、戦前の聖蹟事業に伴い、移転した。
大極殿の北西側と南西側の礎石が残っています。平城宮の大極殿から移してきたそうです。
2024年8月15日に見学しました。天平12年740年に平城京から恭仁京へ遷都しました。平城京にあった大極殿を移築した場所に当たります。聖武天皇や橘諸兄、吉備真備や玄昉が、この地で政務をこなしていたのだと思うと不思議な気分に襲われました。渤海国と同盟関係にあり、唐や新羅を牽制して来た朝廷が、帰国組の吉備真備や玄昉を重用するようになり、外交政策を転換し、橘諸兄は、軍縮へと舵を切りました。そのことが、藤原広嗣の乱の引き金となったように感じます。天平13年741年には、国分寺建立の詔が発せられ、ここに建っていた大極殿は、山背国国分寺の金堂として使われることになったのです。
コスモスが綺麗に咲いていて、天気も秋晴れで良い気分転換ができました!ここに季節の花を植えて管理されている皆さんに感謝です。
ここが恭仁宮の宮殿(大極殿)の跡地。階段のついた石碑のある場所が、大極殿という建物内で聖武天皇がいた位置になります。まずは、いくつかある大きな石に注目です。この石は、大極殿の宮殿を支えた礎石のうち山背国分寺跡に転用されていないものになりますから、この上に宮殿があったわけです。あと、三角形の手水鉢は大極殿が解体された後に出来た山背国分寺で使われていたものでしょう。ただ、大正~昭和時代に立てられたこの場所に多数ある石碑は、色々な表現で書かれてしいますから、ここがどんな場所だったのか分かりにくくしてしまってしまってます。
暑い日でした、訪問者は少ない。いにしえの光景に出会えた気がしました。
平城京跡で教えてもらって訪問した短期間の移設で作られた大極殿跡が残っている。
| 名前 |
恭仁京大極殿址 |
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| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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ただの野っ原でしたが、近くにコスモス畑があったりして良かったです。