胆沢城歴史旅で感慨深く。
胆沢城跡の特徴
9世紀の歴史を感じる城跡で、心に残る体験ができます。
整備された公園内で、田園風景が広がる美しい景色を楽しめます。
埋蔵文化センターでは、ARを用いた3D体験が可能で楽しめます。
色んな城跡に行ってるけど、ここも広大な敷地に建てられた物だったよう。ここを拠点にしてたんだと思うと感慨深い。虹が出たのが何か不思議なものを感じました。
2025年5月20日 アヤメの咲いてる時期には立ち寄った記憶が有ります!という事で、胆沢城跡を周るのは初めてでした! 結構歩きましたが、クイズ式の木の名前が、周りに有り勉強に成ったと言うか楽しめました!
すぐ近くに奥州市埋蔵文化財調査センターがあるので、より詳しく胆沢城が建てられた当時の歴史を学ぶ事が出来ます。また、源頼朝が「鎌倉よりも先にこの地に八幡宮があったのか」とびっくりした鎮守府八幡宮も比較的近くにあるのでそちらもオススメです。
復元された南門、政庁跡、厨(くりや)跡などを見学し、近くの文化財調査センターで勉強しました。木簡や漆紙など文字の残っているものが発掘、展示されていた。また下級役人、上級役人の食事も比較展示。下級はご飯にひじきのみ、上級は鹿肉に魚、副菜も何品か。笑ってしまった。やはりここ胆沢の地は阿弖流為とモレ、そして阿倍仲麻呂である。鎮守府八幡宮も近くにあり、東北支配の拠点が多賀城から胆沢に移されてきたこともよく分かる。蝦夷とは何だったのか。私はかなりアイヌとの重なるイメージを持っているが、米作は気候風土の違いでなかなか北海道には渡らなかったのが違いのひとつ。もうひとつは、北東北で栄えた「馬」。当地では平安期から「馬」を産出してきた。アイヌ文化には「馬」はないという。もちろん北東北の地名にアイヌの名残が多くあるとか、北東北と蝦夷地の間では縄文期から交易があったというのはその通り。我々の祖先のひとつの流れである縄文やさらにその流れを汲む蝦夷。もっと尊重し大切にしないと。今後新たな発見がさらにあると嬉しい。やはり古代の城柵は面白い。志波や秋田城柵にも行ってみたい。
坂上田村麻呂が802年(延暦21年)に東北経略のために築造し、同時期に鎮守府が多賀城から胆沢城に移された。現存する建造物はもちろんないが、広大な城跡が国の指定史跡になっている。5年前に胆沢城歴史公園も開園し、外郭南門の築地塀も復元されている。奥州市埋蔵文化財調査センターも併設され、学習の便宜を図っている。ただひたすら、だだっ広い農作地や空き地を歩くだけなので、興味のない人は飽きてしまうかもしれないが、ちゃんと徒歩で見て回らないとその規模が実感できない。蝦夷に対する備えとして、東は北上川、北は胆沢川を防衛ラインとしているようだ。政庁でもあるため、戦国時代のように山城ではなく平地に築かれているから、地形的に自然の河川も防御施設として利用するしかない。ちょっと興味深いのが、田村麻呂以後の歴代の鎮守(府)将軍に物部氏庶流の匝瑳氏が3人も任命されていること。今の千葉県匝瑳市(そうさし)を開発した地方豪族だ。「匝瑳」という地名が変わっているので、前から気になっていた。
史跡を見れます。けっこう歩けて昔ここにどんなものがあったのか教えてもらえていいですよ。
紺碧の空。いい天気でした。アテルイが育った胆沢は坂上田村麻呂を迎え撃つ拠点にもなりました。モレと共に討ち果たされた後は多賀より北に位置する、より蝦夷の領域にある政庁として作り変えられました。京都から遠く離れた現地では、情も湧いていたのではないか、と色々考えたくなる場所でした。
日曜日14時頃入りましたが、来館者は自分だけでした。展示内容はすごく充実してましたが、この時代に詳しくない者にとっては内容的に難しいかったです。歴史的にすごく大切な土地なので、小学生まで分かるようなモノが欲しかったかなぁ…
紺碧の空。いい天気でした。アテルイが育った胆沢は坂上田村麻呂を迎え撃つ拠点にもなりました。モレと共に討ち果たされた後は多賀より北に位置する、より蝦夷の領域にある政庁として作り変えられました。京都から遠く離れた現地では、情も湧いていたのではないか、と色々考えたくなる場所でした。
| 名前 |
胆沢城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0197-34-1316 |
| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
|
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2026.3.28の訪問。胆沢城は桓武天皇の代の延暦21年(802)に造営した城柵です。外郭築地の一辺の長さは約670mの大きさです。復元した外郭南門は巨大で鎮守府としての重要性を感じます。隣接する奥州市埋蔵文化財調査センターに発掘品や資料など展示しています。