古代の城柵と徳丹城祭り。
徳丹城跡の特徴
平安時代初期に築かれた律令制の城柵で、歴史を感じられます。
毎年開催される徳丹城祭りは地域の楽しみで、訪問する価値があります。
近隣には南部曲り家の古民家があり、文化を体験できる場所です。
2025年3月20日訪問。徳丹城の貴重さをもっと知って欲しいですね。
2025.1.23の訪問。徳丹城(とくたんじょう)跡は弘仁3年(812)に造営したと推定されています。城跡は一辺が約350mくらいのほぼ正方形で資料館でマップをもらって城跡巡りすることをお勧めします。
2024年10月19日724年、現在の宮城県多賀城市に、その地名の由来となる古代城柵が創建された。2024年で創建から1300年となるのを記念して、多賀城をはじめとする古代城柵遺跡で御城印が配布された。多賀城(宮城県多賀城市)牡鹿柵(宮城県東松島市)伊治城(宮城県栗原市)払田柵(秋田県大仙市・美郷町)城輪柵(山形県酒田市)胆沢城(岩手県奥州市)志波城(岩手県盛岡市)徳丹城(岩手県矢巾町)御城印目当てに城柵巡りをした。古代城柵は、律令国家が本州東北部に支配域を拡大するための拠点として造営した、行政と軍事の機能を併せ持った施設と考えられている。ーーーーーーーーーーこの日は、岩手県に所在する3か所の城柵跡を回った。はじめに紫波郡矢巾町にある徳丹城跡に行った。徳丹城は、弘仁3年(812年)に造られた律令制最後の城柵である。徳丹城の造営より前に、東北地方に関する政策転換があった。桓武天皇の下で、延暦24年(805年)に行われた徳政相論の後、蝦夷征討と平安京造都が停止された。徳丹城の造営はこれより後だが、徳丹城はまったく新しい城柵ではなかった。もともとあった志波城が水害に遭ったため、志波城を移転する形で造られた。志波城は陸奥国最北、つまり最前線の拠点だったが、徳丹城は志波城より約10キロ南方に後退した位置に築かれた。規模は縮小され、造営から数年後には正規軍の配置が停止された。ーーーーーーーーーー徳丹城跡を国道4号線が南北に縦断していた。政庁跡は国道の東側にあった。その近くに歩道橋が設置されていた。歩道橋の上から城跡を見渡すことができた。格好の展望台だった。国道の西側では、城跡の整備工事が行われていた。
813年頃に造営された、平安京時代の東北蝦夷征討のための政庁跡。律令時代最後に造られた政庁跡、軍事拠点。数十年機能を果たしたが、その後消滅。元々は紫波城柵がさらに北側にあったが、度重なる水害により被害を受けたことと、平安京造営や蝦夷征討で財政が厳しかった都の方針転換により、南側に小さな規模でここ徳丹城柵が造られた。跡は余り残っていないが、一部施設の復元がなされており、国指定史跡。発掘された(木製甲冑が貴重らしい。)
2021年8月20日に見学しました。弘仁4年813年に完成し、志波城から政庁の機能を移したと考えられる城柵です。官衙の規模は、そう大きくはありません。平安時代の朝廷が、東北地方に対する政策を転換させたためと思います。朝廷支配を進める最後の官衙となりました。品の字型の伽藍配置になっています。北側は、徳丹小学校のグラウンドに当たります。この城柵が、いつ頃まで機能していたのか興味の尽きないところです。貞観11年869年の陸奥国大地震で倒壊した可能性は有るのか知りたいものです。
小学校の敷地内にある歩道橋から見下ろす方が全景がよく分かる駐車場がないので向かいの資料館から来るのがベストかも。
現在の岩手県紫波郡矢巾にあった古代の城柵。 この地域には志波城がありましたが、水害を理由に徳丹城が造営されたとのことです。 弘仁3年(812年)の造営で、律令制最後の城柵だそうです。
何もありません。でも、何もないと、いろいろと妄想ができます。1200年前の人がどんな生活をしていたか、また、蝦夷との関係など、ここに立って、ボッーとすると、なんだか、歴史を感じられます。近くの資料館を見てから来ると、良いと思います。歴史が好きな方にはとても、オススメです。
国道で分断されていました。
| 名前 |
徳丹城跡 |
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| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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公園を兼ねて城跡を展示している公園まだ整備が終わってないらしく、排水用の水路に柵や蓋がありませんでした。また雑草も多かった。展示の説明が点在していました。