会津藩家老 内藤邸で歴史を体感!
会津藩家老内藤邸跡 白露庭の特徴
歴史を感じる会津藩家老の内藤家の屋敷跡です。
会津の魅力が詰まった白露庭でくつろげます。
皆さん、会津をぜひ訪れてほしいですなっし!
『歴史感動ミュージアム 会津武家屋敷』に復元されている会津藩家老 西郷頼母の邸宅はここにあったということですね。
会津藩家老 内藤邸跡です。
会津藩家老の内藤家の屋敷跡です。会津戦争で会津藩が降伏する際は内藤家と、同じく家老であった西郷家との間の甲賀町通りで降伏式が行われました。その際に敷かれた緋毛氈と呼ばれる緋色の絨毯は、内藤家にあったものを持ち出したとのことです。武田信玄公の家臣に「武田四天王」の一人である内藤昌豊がいましたが、跡継ぎがいなかったことから保科正俊公の次男を養子に迎えました。その流れから子孫が会津松平家の祖となる保科正之公に仕え、会津内藤家につながっていきます。会津戦争では西郷家の女性たちの悲劇がよく知られていますが、内藤家の家族も集団自決しており、菩提寺の泰雲寺にお墓があります。
皆さん、会津に来てくらんしょ😅会津は良いとこだなっし。😅
| 名前 |
会津藩家老内藤邸跡 白露庭 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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会津藩家老・内藤家~激動の幕末を生き抜いた会津の名門~会津藩家老九家の一つに数えられた内藤家は、家禄二千二百石を誇る名門である。その祖は甲斐武田氏の重臣・内藤昌豊とされ、武田氏滅亡後は徳川家に仕えた。さらに、藩祖保科正之を育てた保科家と深い縁を持つことから、歴代藩主から格別の信頼を受け、江戸時代を通じて七名の家老を輩出した。幕末の当主は内藤介右衛門信節(1839~1899)で、弟の梶原平馬も家老を務め、兄弟そろって会津藩政の中枢を担った。文久2年(1862)、藩主・松平容保が京都守護職に就任すると、介右衛門も上洛し、新選組の統括や京都政局への対応など重要な任務を担った。慶応4年(1868)の戊辰戦争では、介右衛門は白河口総督として新政府軍と対峙し、勢至堂方面での戦闘中に鶴ヶ城危機の報を受けると、険しい背炙山を越えて帰城。籠城戦では三ノ丸守備隊を率い、約1か月にわたる砲撃戦を戦い抜いた。しかしその裏で、内藤家の菩提寺泰雲寺では、介右衛門の母・妻子を含む一族17名が集団自刃するという悲劇が起きていた。これは西郷頼母家の悲劇と並び、会津戦争を象徴する出来事として語り継がれている。明治元年9月22日、会津藩の正式な降伏手続きが行われた場所は、現在の福島地方裁判所会津支部付近にあった内藤家屋敷白露庭であった。ここは「会津藩終焉の地」として特別な意味を持つ。維新後、介右衛門は旧藩士とともに斗南へ移住し、厳しい環境の中で開拓に尽力した。青森県上北郡に残る「内藤田」の地名は、その足跡を今に伝えている。のちに会津へ戻ると、教育による復興を志し、明治15年(1882)に私立日新館を創設して初代館長に就任した。さらに明治17年(1884)には、現在も続く白虎隊墓前祭の第1回を主催し、白虎隊顕彰にも尽力した。家族を失い、故郷を追われながらも、教育と慰霊に生涯を捧げた内藤介右衛門。その歩みは、会津武士が重んじた「至誠」の精神を象徴するものであり、今も多くの人々の心に深く刻まれている。