沖縄の壕で80年前を体感。
沖縄陸軍病院山城本部壕跡の特徴
陸軍病院壕跡は沖縄戦の重要な史跡です。
雨後の湿度で壕の暗さが際立っていました。
古い石標を目印にして訪れる価値があります。
26/2訪問戦時中病院があった場所。地下壕であったがそこに砲弾が撃ち込まれて亡くなった方々が多数いた。
沖縄陸軍病院第一外科壕を見学したあと、さらに南に進むと沖縄陸軍病院山城本部壕があった。地元ではサキアブと呼ばれているガマ(自然洞窟)である。1945(昭和20)年3月に米軍の攻撃や艦砲射撃が始まると、山城の住民がこのガマに避難した。そこに、南風原の陸軍病院壕から南部撤退に伴い南へ移ってきて、このガマを病院本部壕とした。この本部壕から伝令などを通じて分散した各外科壕を統率したが、病院としての機能はほとんど失われていたという。1945年6月14日には本部壕入口付近に砲弾が直撃し、病院長をはじめ兵士やひめゆり学徒隊の多くが戦死または負傷した。また、このガマの隣には「沖縄陸軍病院之塔」が建立されている。塔の沿革によれば、戦没した沖縄陸軍病院の傷病兵や職員、学徒を祀った慰霊塔である。さて、装備を整えてガマのなかに入壕した🚶♂️解説板の掲載図によれば、砲弾落下地点や炊事場、院長室などが示されていたが、暗闇のなかを目視で見る限りでは判別できなかった。ただ、ガマの奥に割れた陶器があった。もちろん、素人目ではこれがいつの時代のものかは分からないが、かなり奥の地点に残っていることを踏まえると、沖縄戦時のものかもしれない。また、地上に戻る途中で供養塔のようなものを見つけた。塔には「戦死、一九四四年七月三日、島尻三和村」と刻まれていた。ここに記されている島尻三和村についてインターネットで調べてみると、おそらく島尻郡三和村のことで、戦後、アメリカ統治下にあった琉球政府時代の村名である。そのことから、戦後に供養塔として建立されたものと推察される。このように、ガマのなかを観察すると、沖縄戦下でここに人々が生きていた痕跡を確認することができた。戦争の生々しさが伝わる戦争遺跡であった。
ひめゆりの塔とは違い、周囲に人が全くおらずとても静謐な場所でした。ここで最期を迎えた方々がいることを思うと、平和な世の中のありがたさを痛感します。
地元ではサキアブと呼ばれる自然洞穴です。すり鉢状の窪地部分から中に入ると、壕口のある広場と奥の広場の2つに分かれています。1945年3月、米軍の猛爆撃や艦砲射撃が始まると、山城の住民の一部がこのサキアプに避難しました。5月下旬、南風原にあった陸軍病院が南部に撤退し、この場所を病院本部壕とし、第一外科燥、第三外科壕を伊原に、第二外科塚を糸洲におきました。陸軍病院には、沖縄師範女子部と県立第一高等女学校の学徒も配属されていました。廣池文吉病院長以下の首脳陣らは、伝令や命令受領者を通じ分散した各外科濠を統率しましたが、撤退後は病院としての機能はほとんど失われていました。6月14日、本部壕入口付近に落ちた直撃弾によって、廣池文吉病院長をはじめとする兵士や学徒の多くが戦死または負傷しました。6月18日、沖縄陸軍病院は解散となり、病院勤務者や学徒らは、米軍の激しい包囲攻撃の中をさまようことになりました。-案内板より-
案内標識も分かりづらく立ち寄り辛い。ひめゆりの塔を参拝した後立ち寄れやすいよう整備してほしい。
80年前沖縄は戦場だった日本陸軍の沖縄陸軍病院の本部が最後に移転した壕。首里司令部の南部摩文仁への撤退により、南風原病院壕も南部への撤退を余儀なくされたが、計画的ではなく、混乱の中で移動が行われた。1人で歩けない重傷者などは置き去りにされ、自決用の青酸カリが渡された。病院の移動先は、山城、伊原エリアで、分散して第一外科壕、第二外科壕、第三外科壕(ひめゆりの塔)とこの本部壕に避難した。ただし、一分行き先を失った人たちもいたよう。このエリアに移って来た頃は、砲撃などはまだそれほど激しくなかったよう。この本部壕には、ひめゆり学徒隊の一部も同行しており、伝令の役割などを担っていた。この壕でも米軍の攻撃で多くの人が亡くなった。解散命令が出されて、壕から出ようと外に出た途端に砲撃にあい、ひめゆり学徒も亡くなったりした。手入れはされていても、ほとんど訪れる人がいないこの壕や記念碑。80年前には、ここで何人もの人が人生の最期を迎えなくてはならなかった現実を忘れてはいけない。
ひめゆりの塔へ行き、その後海岸の集団自決の所へも行こうと思って車を走らせてた所へ古い石標が有り向かいました。私以外は誰も居なく静けさが余計切なくなりますガマの中も入れそうですが花も線香も何も無く入るのは気が引けた為外から合掌。
大東亜戦争戦跡めぐり旧日本陸軍、沖縄戦最終の病院本部壕跡です。南風原から南へ撤退し、ここに本部機能を移転、各病院壕へひめゆり学徒隊を伝令に向かわせました。この壕は、本部機能しかなく傷病者はいなかったそうです。1945年6月14日の砲撃で病院長以下多数死傷者をだし、廣池病院長は戦死。18日には、佐藤病院長代行から各壕へ解散命令が出された、陸軍病院機能は、完全に停止され、組織的行動は終了し、各自自ら行動しなければなりませんでした。その後、各壕へ散ったひめゆり学徒や勤労員達の運命をも分ける解散命令でした。亡くなられた方々へ哀悼の意を表します。
陸軍病院壕-山城本部壕(サキアブ)沖縄戦で徐々に南部に追い込まれていった日本、糸満市には多くの病院壕があるので、そのひとつとしてここを訪れました。ここもやはり先に避難していた住民たちが日本軍の南部撤退で住民は追い出され病院壕となったそうで、ここにはひめゆり学徒題の女子生徒も働いていたそうです。ちなみに各学徒隊への解散命令はこの壕から出されたそうです。
| 名前 |
沖縄陸軍病院山城本部壕跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[土日月火水木金] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.6 |
| 住所 |
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沖縄戦末期に第三十二軍司令部が首里を放棄し、喜屋武半島へ司令部を移した事から陸軍病院も南風原から撤退、サキアブと呼ばれる壕に病院本部を移し、負傷兵の治療にあたったが、米軍の苛烈な砲爆撃により直撃弾を受けて病院長が戦死、兵士や学徒隊にも負傷者や戦死者が出た。病院としての機能を喪失して解散となるも、砲弾が飛び交う戦場で、多くの人々が命を落としたとある。