新川運河と神戸発展の父を訪ねて。
神田兵右衛門の彰徳碑の特徴
神田兵右衛門彰徳碑は和田神社内に位置しています。
新川運河を完成させた歴史的な史跡です。
神戸発展の父と称される重要な遺産です。
■神田兵右衛門の彰徳碑 #20210203神田兵右衛門(こうだ ひょうえもん)は[天保12年(1841)2月18日〜大正10年(1921)1月13日]日本の実業家。播磨国印南郡大塩村(現在の兵庫県姫路市大塩町)の庄屋梅谷家の三男として生まれ、安政3年(1856)15歳で兵庫出在家町の素封家、第12代神田兵右衛門の養子となる。神田家は屋号を岩間屋といい、出在家町で干鰯を主とした海産物、米問屋などを経営する兵庫の旧家だった。町兵隊の編成、明親館など神戸市内十数か所の学校を建設、新川運河や兵庫運河の築造、水道の布設などで功績があり初代神戸市会議長をはじめ多くの公職にも就く。「神戸発展の父」とも呼ばれる。●この碑の後ろの標札は神戸史談会が平成27年(2015)3月に建立。兵右衛門は神戸史談会の初代会長。神社の厚意で社務所内に郷土史に関わる資料保全がされたとある。何と有り難いことだろう、将来研究される際の光となろう。大鳥居⛩も新しくなり雄大で赤く夕陽に映えていた。■碑文(神戸文書館HPより引用】神田翁彰徳碑兵庫県知事正三位勲一等服部一三篆額求めて得ざる者は名にして、得て失ひ易き者は望なり。衆望の之に帰し、人之を服慕し令名益々盛なるは実に難し。神田翁の如き難ずる者も難ぜず。謙にして愈々顕はる。其積徳の致す所、偉と謂ふベきなり。翁、名は胤保(たねやす)、号は松雲、播州印南郡大塩村梅谷庄左衛門君の第三子。天保十三年二月十八日を以て生る.安政三年六月兵庫神田氏の養ふ所となる。(養子となる)慶応元年九月家を嗣承し父の称兵右衛門を襲ふ。明治元年二月会計宮御用掛となり東征の出納を掌る。時に姫路藩未だ順逆をつまびらかにせず向背決せず。岡山兵来りせまる。上下紛擾し藩老高須隼人、薩将岩下氏と謀り以って帰順す。翁此議に参与し周旋甚だ力む。盗を防ぎ暴をふせぐの法制未だ定まらず。翁即ち議して町兵隊を編し以て不慮を警す。又教育の急務たるを論じ、学堂を建置す。命じて明親館といふ。五年学制始めて定まる。すなわち小校十数を設く。又地を購ひ拡張す。今の兵庫尋常小学の地是也。港湾未だ全からず。新川杜を籾(はじ)め、新渠をうがち九年七月川成る。翁まさに区長たり。故に名を避け実を修めえ事に当り竣工す。地を得ること九千余坪、湊西区財産となし、又官に請うて、瀕海(海辺)の地一満有余坪を得、諸街(緒町)に分配し以って共有財産と為す。凡そ埠頭(はとば)の地船舶の遭難発する者あれば害の大小、貨の多寡に準じ費金を課賦し、俗に浦仕舞と呼ぶ。これ他人の禍難を利するなり。翁痛論して之を除く。翁天資忠恕(思いやりの心)敦厚(親切で手厚い)、謙(謙虚)にして克(自制する)。成人皆心服す。凡そ議会には悉く之に参じ町に於て市に於て県に於て長となり、或は常に員となる。郡区経済を分離し、社局を創立する等、諸の大項より以って学務衛生殖産、勧商に至るまで心を尽さざる所なし。その水利に於て最も力を致すと云ふ。(水道市設委員長として、神戸市水道布設に尽力) 三十二年九月官 藍綬褒章を賜ひ銀杯之に副ふ。四十二年十二月特旨を以って、従六位に叙せらる。今玄康戌翁年七十、市民同志相謀り碑を建て以て其徳を彰せんと欲して来りて余に文を請ふ。ああ名声烘然(きょうぜん)。衆すなわちこれを後世に顕はさんと欲す。齢古希にのぼり(達し)衆すなわちいよいよ高きを祈る。其衆望を得るの厚きことかくの如し。以って銘せざるべからず。銘に曰く 摩耶の山 武庫の海 徳深く 衆以って相比ぶ 論を立てて 忠誠勲功これ偉なり 理水殖財沢、都市に遍し望の帰する所 僉済美(みなさいび)を推す(父祖の業を承けて成功する事)上寿(長寿)奚(いずくん)ぞ疑はん君子愷(やはらぎ)を楽しむ。明治四十三年庚戌十月浪華 南岳藤沢恒 撰従五位勲四等大邨屯書【台座側面の文】「巳酉歳暮翁有叙位之典南浜七町議為翁建碑傳不朽翁固辞然恐翁之功労帰湮没切請得諾矣湊西区会及有志者等亦賛助之依翌年八月起工以本年本月告竣云爾明治四四年三月 建設発起者述」
新川運河を完成させ「神戸発展の父」と称された。
| 名前 |
神田兵右衛門の彰徳碑 |
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| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
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和田神社内にある神田兵右衛門彰徳碑。