歴史深き太田神社へ。
太田神社(茨木市)の特徴
太田神社は中臣氏の祖神を祀る歴史的な神社です。
隣接する太田茶臼山古墳との関係が興味深い場所です。
本殿手前の拝殿が改修され、綺麗になりました。
2025/4 参拝マップでルート検索すると辿り着けなかった記憶です参道、木に挟まれるような光景がいいですね社殿は覆屋、狛犬が前にいます鳥居の扁額に屋根が付いています。
2021年3月14日(日)に行きました。西国街道沿いに神社への参道が有り、入口には献灯が道路両端に建っています。この先から神社手前までは住宅街で駐車場は有りません。数個の建物が有りますが、説明板は無く何の建物なのかは分かりませんでした。でもしっかり手入れはしてあります。
旧西国街道からは、ここに「太田神社」があることはわかりません。私は、近隣に半世紀以上、暮らしてきましたが、このことを地図で見つけるまで、知りませんでした。古い神社ですが無住のようです。社地が、太田茶臼山古墳(継体天皇陵)や高田村、東太田村より低い位置にあり、本殿背後の高まりは古墳と見られるので、神社(古墳)が見下ろすことができる立地から、中臣太田氏の本拠地の太田村の鎮守であるでしょう。
太田神社おおだじんじゃ/おおたじんじゃ大阪府茨木市太田3丁目15-1祭神天照皇大神速素盞鳴尊豊受皇大神大田については「播磨国風土記」に朝鮮半島からの移民がまず紀伊国名草郡大田村にそして摂津国三島賀美郡大田村に更に分かれて播磨国揖保郡大田里に移住したとの記載あり当地方は中臣氏の本貫地であり上記の移民者と融合し「中臣大田連」が一大勢力を築き上げたと思われます故に祭神は神社が言うものではなく中臣氏の祖神である天兒屋根命と思われますなお隣接して太田茶臼山古墳がありますが宮内庁は継体天皇陵としていますが出土遺物から継体天皇時代よりは100年程古いとのことで学会では継体天皇陵の宮内庁主張は否定されていますだれが真の被葬者かが問題でありますがこれだけの大古墳ですから地域の有力者である中臣氏関係が疑われますなおグーグルナビ、純正カーナビでは当社にはたどり着けません、為念2021/2/24 参詣。
改修されたとの事。綺麗に整備されていました。社務所は無人です。小高い所、杉林に囲まれた静かな場所です。
今月、本殿手前の拝殿を改修工事が完了して、屋根も綺麗になりました。お近くにお越しの際は是非お参りください。
此処にお参りした後は、来た道を引き返すしかありません。奥を通り抜けは出来ないようです。
これと言った特徴の無い、ひなびた神社です。
太田茶臼山古墳に隣接しており、太田神社との関係が指摘される。当地は「中臣大田連」の本拠地と考えられ、中臣氏祖神の天児屋根命が祭神だったとする説がある。
| 名前 |
太田神社(茨木市) |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
072-622-4815 |
| HP |
https://osaka-jinjacho.jp/funai_jinja/dai2shibu/ibaraki-city/02032ohdajinja.html |
| 評価 |
3.4 |
| 住所 |
|
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太田神社(おおたじんじゃ)。大阪府茨木市太田。式内社(小)、旧村社。主祭神:素盞嗚尊 天照皇大神 豊受皇大神 (配祀)少彦名命【関係氏族】中臣大田連新撰姓氏録摂津國神別に「中臣大田連天児屋根命十三世孫御身宿禰之後也」とある。「中臣大田連」の本貫地と見られることから、本来は中臣氏祖神・天児屋根命が祭神だったと見られている。資料によると、創建は不詳。太田茶臼山古墳(継体天皇三島藍野陵)に隣接して鎮座しており、太田神社の創建以前から古墳は存在したと見られている。現在の考古学では真の継体天皇陵は北東の今城塚古墳とされており、太田茶臼山古墳の真の被葬者が誰かという問題も含め太田神社との関係が指摘される。また、『新撰姓氏録』に記載される「中臣大田連」の本貫地と見られ、この中臣大田氏による祭祀の存在を指摘する説もある。『新撰姓氏録』では中臣大田連について「天児屋根命十三世孫の御身宿禰の後」と記載するが、これを『松尾社家系図』の「御身足尼命」(ただし十四世孫と記載)に比定し、その子の「太田彦命」が中臣大田連につながるという説も挙げられている。そのほか、『播磨国風土記』揖保郡大田里条には「呉の勝(くれのすぐり)が韓国より紀伊国名草郡大田村に移り、分かれて摂津国三島賀美郡大田村に移った」という記述がある。当地は通説では島下郡の所属と見られ、三島賀美郡(島上郡)の記述には反するが、「勝(すぐり)」のカバネを有することから百済からの移住と考えられている。これより、三島に中臣氏が進出するにあたり、これらの「呉の勝」末裔と融合して中臣大田連が形成され、氏神として太田神社が創祀されたという説が提唱されている。当地は戦国時代しばしば戦乱の巷となつたため、兵火の災に遭い、社殿記録を失い、由緒沿革の明確を欠き、したがつて祭神に変遷のあつたことがうかがわれる。とあります。