江戸日本橋115番目の一里塚、探訪しよう!
柏原一里塚跡の特徴
江戸日本橋から115番目の一里塚の復元された史跡です。
柏原宿探訪の際にはぜひ立ち寄りたい場所です。
実際とは異なる場所での復元に興味を引かれます。
江戸日本橋から115番目の一里塚(復元)です。復元とはいえ、かつての一里塚を見ているようで、嬉しくなりました。もう片方は、川の底に沈んだようです。
| 名前 |
柏原一里塚跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP |
https://kashiwabara-juku.com/map/kashiwabara-ichirizuka-ato/ |
| 評価 |
3.3 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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実際とは異なる場所で復元2024年5月上旬、柏原宿探訪の際に寄りました。中山道から少し南に入った場所に復元されており、そこに設置されている説明板には————————————————————(復元) 柏原一里塚一里塚は、旅人の里標(みちのり)の目安・駕篭・馬の乗り賃銭の目安と旅人の休息場所として造られた。慶長九年(一六0四)、徳川家康の命をうけ、秀忠はまず東海道と中山道・北陸道での一里塚築造に着手した。そして奉行には永井弥右衛門白元・本多佐太夫光重を任命、江戸は町年寄の樽屋藤左衛門・奈良屋市右衛門、街道沿いでは天領は代官、私領は領主に工事参加の沙汰が出された。工事現場の総監督はすべて大久保長安が担当した。一里塚の規模は、五間(九メートル)四方に盛土して、一本または複数本の木が植えられた。おもに榎が選ばれた。成長が早く根が深く広く張って塚が崩れにくい利点から採用された。柏原一里塚は、江戸日本橋から数えて百十五番目で、柏原宿内の西見附近くに街道を挟んで北塚と南塚があった。(両塚ともに現存しない。)北塚は、街道沿い北側で、愛宕社参道の石段東側(現中井町集会所)の場所にあった。南塚は、街道を横切る接近した二筋の川のため、やむを得ず東側の川岸で街道より奥まった所に築かれた。(現在では、大幅な河川工事が行われたので、この地点から東寄りの河床の位置になる。)・なお、江戸時代刊行の道中記等を見ると、両塚とも三本の榎が描かれている。————————————————————とあります。