宇喜多秀家の潜伏地、薩摩へ。
宇喜多秀家公の匿居地の特徴
関ヶ原の戦い後、宇喜多秀家が潜伏した歴史的な場所です。
薩摩行きの前に匿われたという興味深いストーリーがあります。
宇喜多秀家主従が隠れていた遺跡を訪れる貴重な体験ができます。
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薩摩に行く前に匿われた所。岡山の石なるものがありましたが、宅急便で送られてきたものとの事。
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| 名前 |
宇喜多秀家公の匿居地 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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関ヶ原の戦いののち、宇喜多秀家主従が潜伏していたところだそうです。碑文によると、関ヶ原の敗戦の後に山中を彷徨っていた秀家主従は池田郡粕川谷(春日村)に落ちのびて中山村で白樫村の郷士・矢野五右衛門重昌主従に発見されたのですが、重昌は秀家主従を匿うことに決め屋敷の土牢の中でしばらく秀家を懇ろに介抱し後に秀家を病人に見せかけて大阪の備前屋敷まで送り届けました。その後、秀家は島津義弘に匿われ薩摩に潜伏していました。そして島津家と前田家の助命嘆願により秀家は死一等を減ぜられ八丈島へ流罪となり、明暦元年(1655)11月20日に83歳で没したそうです。これを読んで感じたことは秀家は最終的には八丈島に流罪となりましたが、薩摩まで落ち延びることができたので三成も運が良ければ居城の佐和山か、更には大坂まで逃げ延びることもできたのではないかということです。しかし皆さんご存知のように、三成は木樵に変装して山中に潜伏しているところを田中吉政の兵に発見されて最期は三条河原で首をはねれることになったのでした。こうしてみると私は三成はやはりとことん運が無かったと思います。それはさておき、この地は関ヶ原の合戦の秘話に関わる興味深い史跡なのでこれからも大切にしていってほしいと思います。