呉津彦神社で感じる神秘の世界。
呉津彦神社の特徴
延喜式神名帳に名を連ねる神社であり、その歴史は深いです。
雄略天皇と渡来人にまつわる起源がある独特な場所です。
地名栗原の由来が藩の文化を感じさせる貴重な神社です。
石段を登って右側にムクロジの巨樹がある。幹周り:4.07m、樹高:25m、登録No.48085根張りが見事で空洞等もない。ムクロジとしてはかなりの大きさになる。
呉津彦神社(くれつひこ) 式内社 旧村社御祭神 呉津孫神、木花咲耶姫命、天児屋根命壇上に二つの祠があり、向かって右が木花咲耶姫命、左が天児屋根命だそうです。しかし呉津孫神は何処でしょう。日中関係が難しくなってる神様もどこかへ移動したのかな。二つの祠の壇の階段下に意味不明な祠が一つ。賽銭箱かな。また右手に二つのコンクリートブロックで作った祠がありますが、中は空っぽ。さらに右手の雑木の中に陽石のような石があります。毘沙門の「毘」という文字だけは読めますが、何かは分りません。壇の左側には石仏が一体ありますが、仏様のお名前は分りません。神社の隣が寺になっていますので、石仏ならそちらに置かれるものでしょうが、なぜかこの石仏だけは神社側にあります。分からないことだらけの謎の神社です。
延喜式神名帳に記載されている大和国高市郡の式内社。村社。主祭神:木花開耶姫命、天児屋根命。
式内社 大和國高市郡 呉津孫神社ですこのお社の起源はー『日本書紀』雄略紀からー雄略天皇は 朝廷書記官で渡来人の「身狭村主青(むさのすぐりあお)」と「檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)」を呉の国に派遣する呉王が返礼として献ずる呉人は 主に機織りに関わる 漢織(あやはとり) 呉織(くれはとり) 衣縫の兄媛(えひめ) 弟媛(おとひめ)等であったこれらの呉人を住まわせたので 呉原(くれはら)と名付けた呉原が訛り栗原の地名に転化 これが今の栗原の由来らしくこの呉人らが 氏神として祖神「呉津孫命」を祀ったのが起源。
| 名前 |
呉津彦神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-nara/jsearch3nara.php?jinjya=34145 |
| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
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呉津彦神社(くれつひこじんじゃ)。奈良県高市郡明日香村栗原。式内社(小)、旧村社。【祭神】呉津孫神 木花咲耶姫命 (配祀)天児屋根命【関係氏族】呉氏資料によると、『日本書紀』の雄略天皇の記事に「身狭村主青(ムサノスグリアオ)」なる人物が呉国に派遣され、機織や裁縫の技術を持った漢織、呉織、兄媛、弟媛らを連れて来たことが記されています。これを受けて雄略天皇十四年三月の条に呉の大使を迎え、呉人を檜隈野に置き、その地を「呉原」と名付けたと記しています。(『古事記』にも同様の記事あり)この呉の人を置いたという「呉原」は当地の地名「栗原」と推定され、この地に鎮座する当社は呉の人々が祖を祀った、或いは身狭氏が祖を祀ったものだったことが考えられます。『新撰姓氏録』左京諸蕃に呉孫権の子、高を出自とする漢系の渡来系氏族「牟佐村主」が登載されており、身狭(牟佐)氏も呉国の皇帝の子孫であることが示されています。また『新撰姓氏録』右京諸蕃に呉国の人、太利須須を出自とする「工造」が登載され、この氏族は身狭村主青が連れて来た工人の子孫であるとも考えられます。身狭村主青が呉国に派遣されたのは呉国の皇帝の子孫としてのコネクションを利用したものであったことが窺え、呉原の置かれた呉の人々を管理・統括する立場であった可能性も考えられます。当社の創建はこうしたことを背景にし。彼ら呉国の人らの祖をクレツヒコとして祭祀したものだったのでしょう。本殿は二社並んで鎮座し、向つて右が木花咲耶姫、左が天児屋根命とするとあります。『式内社調査報告』は当社境内社の「鎮守神社」に本来の御祭神(呉津彦神)が祀られているともしていますが、2014年参拝時は当該の境内社はなくなっており、現在どのように祭祀されているのかはっきりしません。とあります。