明治創業、櫻橋の歴史。
土浦町道路元標の特徴
櫻橋の欄干が印象的で、歴史の深さを感じる場所です。
中城通りと国道125号線交差点近くに位置してアクセスが便利です。
帆立食堂前にあり、撮影スポットとしても人気のある史跡です。
ジョギングしていて偶然見つけた。道路元標というと花崗岩で作られ彫られた文字が読みにくいものが多いが、こちらはくっきりだ。この辺りは昔の雰囲気を残していている。城下町、宿場町、港町として栄えたことを感じられる。
フィルムカメラで撮影したものなので鮮明でないかも知れないけど、「櫻橋」欄干の隣にあるのがそれ。この辺りは探せば歴史を感じられるものがまだまだありそう。
新治郡土浦町道路元標(にいはりぐん つちうらまち)明治2(1869)年創業の保立食堂角に櫻橋の親柱とともに残されている。水戸道中の土浦宿がおかれ、本陣が近くにあり宿場町の中心部にあたる。明治22(1889)年4月の町村制施行により土浦町単独で成立。周辺自治体を編入しながら市域を拡大して昭和15(1940)年11月、真鍋町と合併して土浦市が成立。
中城通りと国道125号線(亀城通り)との交差点の帆立食堂前に道路元標があり、その隣には「桜橋」と記された(たぶん)欄干の一部が並びます。ここは、まさしく土浦藩の城下町の中心であり、また、桜橋が架けられていたところです。目の前の国道125号線はかつて桜川が流れていましたが、昭和初期に暗渠となって道路の下に追いやられました。交差点の下には明治34年に架けられた煉瓦造の橋が埋まっているそうです。大正 8 (1919)年,内務省の「道路法」で「道路元標ハ各市町村ニ一箇ヲ置ク」と定められ、大正 11(1922) 年には「道路元標ハ石材其ノ他ノ耐久性材料」「25cm 四方,高さ 60 ㎝(先端は丸型)」「其ノ位置ヲ表示スル為道路ニ面シ最近距離ニ於テ路端ニ之ヲ建設スヘシ」とされ、当時の市町村数と同じ12,300もの道路元標が建てられたのです。
再訪して存在確認したので写真追加します。━━━以下は1年前の アップロード内容は掲載待ちです になっていた口コミです━━━ほたてさんの角にあります。道路元標は大正8年に制定された旧道路法に基づき全国各地の市町村に置かれた基準点で、石碑は大正11年に内務省令でサイズや形状が指定されました。土浦が合併で市になる前の 土浦町 がわかる貴重な史跡です。ーーー以下はGoogle mapと道路元標についてーーー2022年11月に道路元標がGoogle mapから削除されてしまいました。2,000弱の登録が消され、残されたのは日本橋の日本国道路元標を含めた3箇所だけになりました。2022年12月末から再登録しても消えなくなったのですが、2023年2月から再度消されています。削除のタイミングはまちまちで登録から2日で消えたりひと月以上消されない場合があります。こちらに訪問したので登録しますが、そのうち消されると思います。
| 名前 |
土浦町道路元標 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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大正8年(1919)の旧道路法に基づき設置された道路元標。設置当時から移動せず、ほぼ同じ位置に現存している。土浦町は明治22年(1889)の町村制施行時に形成され、昭和に入ってから中家村、藤沢村、東村を編入した後に、昭和15年(1940)に真鍋町と合併し土浦市となり、土浦町は廃止された。大正期の設置当時、この場所は旧水戸街道(現在の中城通り)が桜川の支流「川口川」を渡る「桜橋」のたもとであり、当時の土浦町役場(現在の常陽銀行土浦支店の位置)に近接し、陸上交通の要衝であるかつての宿場町と、川口川を介した霞ヶ浦の舟運ルートが交差する町一番の交通の中心地であったため、この地点が道路元標の設置場所に選定されたと思われる。その後、川口川は鉄道の開通や市街化により埋め立て・暗渠化が行われ、現在の亀城通りやモール505、土浦ニューウェイとなった。川や橋は姿を消したが、道路元標とそのすぐ隣にある桜橋の親柱(欄干の柱)は移動せず、当時のまま交差点の角に残されている。道路元標と橋の遺構の正面には、明治2年(1869)創業で、天ぷらと刺身を専門とする老舗「保立食堂」が現在も残っている。戦時中は予科練生が外食を許された指定食堂であり、家族との面会や食事をする場であった。かつては旧水戸街道の宿場町として賑わった中城通りも、亀城公園(土浦城跡)の北側を通る現在の国道125号(かつての国道6号)やさらに北側の6号バイパスに交通の要衝という役割を譲っている。設置から100年が経ち、街道や舟運から鉄道や自動車へ、そして自転車観光の街へと移り変わる様子を土浦町道路元標は静かに見守っている、のかな。