皇紀の歴史を感じる御朱印巡り。
登彌神社の特徴
富雄川沿いに位置し、郊外と田園が調和した立派な神社です。
八百万の神々が祭られ、豊かな歴史を感じられる場所です。
可愛らしいお地蔵さまも近くにあり、訪問者を和ませます。
登彌神社(とみじんじゃ)。奈良市石木町。式内社(小)、旧県社。鎮座地名を木島村と言ったようで、通称は木嶋大明神。式内社・登彌神社に比定される古社。主祭神:東本殿:高皇産霊神 誉田別命西本殿:神皇産霊神 登美饒速日命 天児屋命資料によると、由緒については、皇紀4年春2月23日、神武天皇がこの地に於いて皇祖天神(または、饒速日命)を祭祀されたのが、淵源であり、その後、登美連が祖先である饒速日命の居住地であったこの地に、命の夫妻を奉祀したのが神社の創建(注1)とされている。小宮も合わせて二十二柱の神を奉斎している。当社の神事「粥占い」が有名らしい。竹筒で小豆粥を炊き、小豆の分量でその年の豊凶を判断し、周囲の農家へ報告するもの。文化庁より、令和2年4月3日、本殿・拝殿・神饌所・手水舎・社務所が登録有形文化財に登録される。とあります。参考として、(注1)命の夫妻を奉祀したのが神社の創建とありますが、妻である登美家の女性が祭神として祀られているのが表出していません。添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)の宮司さんは、富雄の登彌神社の御祭神の天児屋根命は長髄彦のことだと思うと言われました。そして添御縣坐神社の武乳速命は長髄彦のことです、と、こちらは確信をもたれた表情で話してくださいました。おそらく登彌神社の名の由来は登美家にあるものであり、当地は登美家が勢力を置いていた場所であろうと思われます。なのでここに、大彦の拠点があった可能性も高いと思われます。そこへ物部族がやってきて歴史を書き換え、登美家がまるで饒速日命の子孫のような、あり得ない伝承を作り上げたと考えられます。とあります。
登彌神社 本殿(国登録有形文化財)631-0054 奈良県奈良市石木町648-1祭神:高皇産霊神、神皇産霊神、誉田別命、天児屋根命、登美饒速日命、大日霊女命、他日本書紀や古事記の記述と遺跡や各神社の「イワレ=伝承」との間に・・特に「年代」に関して「違和感」がある、富雄丸山古墳、添御縣坐神社、登彌神社を回ると富雄丸山古墳の被葬者が誰かしりたくなる。そこで当地周辺の状況と地名等について調べてみる。北から添御縣坐神社、2.5Km・富雄丸山古墳、1.5Km・登彌神社と配置されている、西には(太古)大阪湾・難波の津が生駒山系の麓に迄迫り、富雄の反対山麓に石切劔箭神社と枚岡神社が存在する、従って難波の津から大和へ入るには①河内国・草香邑(日下町・善根町)から孔舎衛坂を超え、饒速日山伝承地を通る道、②石切劔箭神社と枚岡神社から暗峠を越える道の2通りがある、地名・人名には竜田、矢田、登美が有り、特に「トミ=戸海」は海や川からの入口・古代の物資集散地を意味していると思われる。①富雄(ナガスネヒコの本拠地=トミ)については難波の津からの入口であり、富雄川から大和川をへて三輪・桜井の等彌(トミ)神社間の物資流通を仕切っていた。ナガスネヒコの(本拠地=トミ)②出雲ではタケミナカタの(本拠地=トミ)であった。③諏訪湖でも「タケミナカタ・トミ」とされている。・・・ナガスネヒコについては「添御県坐神社」で考えてみる。
本日初めて参拝させていただいた。桜井の等彌神社とは一字異なる。石木郷他の氏神さまであるが、農作物成育の粥占いで有名であり、占いの結果は半紙?に書かれ境内に掲示されている。また、饒速日命との関連を社伝で明らかにしており、立地雰囲気等そっくりな三碓神社の祭神は、義兄弟の長髄彦を祭るが、どちらの神社も私の目には同じように見える。また、式内社登彌神社を他の社に充てる説があるようだが、当社は十二分に相応しい風格を持っ。参拝時、本殿屋根の千木が午後の日光でキラキラ輝いたのが印象的だった。
起源は皇紀4年春2月23日、神武天皇がこの地で皇祖天神を祭祀されたのが淵源。その後、登美連が祖先である天孫饒速日命の居住地であったこの地に、命のご夫妻を奉祀したのが創建とされる。現在はその他の神も一緒に祀られているが、もともとはニギハヤヒ尊を祭っていた事が分かる。駐車場は神社手前に表示があり分かりやすい。
飛鳥時代、大和地方平定に功績のあった饒速日(ニギヤハヒ)命の子孫である登美連(トミノムラジ)が、饒速日命とその妻の住居地であったこの地にご夫妻を祀ったのが始まりとされる。なお、連とは姓のこと。現在の主祭神は五柱いて、その中に饒速日命もいる。小宮も合わせると二十二柱の神を祀っている。主祭神の二柱、高皇産霊(タカミムスビ)神と神皇産霊(カミムスビ)神は饒速日命と共に祀られる。神武天皇の大和入りの祭祀の主祭神が高皇産霊神で皇祖神である。女神的要素を持つ神皇産霊と対になり、男女の「むすび」を象徴する神であるとも考えられる。通称、木嶋明神と呼ばれ、参道の石燈籠は多くは木嶋大明神と彫られている。奈良時代、平城京から一時滋賀の紫香楽宮などに遷都した時期があったが災害が続き、平城京に都が戻る。この地は富雄川の流れを使った木材の集積地で、諸国からの用木を積み置く島に、御用木守護ため誉田別(ほんだわけ)命を分霊し、木嶋大明神となる。誉田別命は応神天皇にあたり皇祖神でもあるが、当時は神仏習合だったため、仏教守護としての役割もあったと思われる。ご祭神の一柱、天児屋根(アメノコヤネ)命は奈良時代、河内の枚岡神社から奈良の春日大社に分霊する際、この地に行宮された由緒からとなる。摂社には、川の神、瀬織津姫神はじめ祓いを司る四柱の神が祀られる。毎年2月1日に筒粥祭として「粥占い」が行われる。湯釜に粥の入った数本の竹筒を焚き、引き揚げた竹筒に入った粥の残り具合で作物の実り具合を占う。粥占いは奈良市無形民俗文化財。この筒粥神事は、長野県の諏訪大社、千葉県、岡山県など全国各地の神社で行われている昔ながらの占いとなる。登彌神社は式内社である。平安時代の法律などをまとめた「延喜式(えんぎしき)」の中の神名帳にのっている神社。全国各地の神社2861社が収められている。式内社とはこの延喜式内社を略したもの。なお、饒速日命には複数妻がいたが、こちらは神武天皇と戦った長髄彦の妹の御炊屋(ミカシキヤ)姫、別名登美夜(トミヤ)毘売との住まいとされる。
起源は皇紀4年春2月23日、神武天皇がこの地で皇祖天神を祭祀されたのが淵源。その後、登美連が祖先である天孫饒速日命の居住地であったこの地に、命のご夫妻を奉祀したのが創建とされる。現在はその他の神も一緒に祀られているが、もともとはニギハヤヒ尊を祭っていた事が分かる。駐車場は神社手前に表示があり分かりやすい。
ニギハヤヒに関連すると聞いて千葉県からやってきました。この地がニギハヤヒの住居地だったそうで、子孫たちがニギハヤヒ夫婦を祀ったのが始まりなんだそう。雰囲気が良い神社で規模は大きくないですが、独特です。拝殿とすぐ奥に神楽殿、そしてさらに奥に2つの本殿があります。修復工事が行われたそうで、2つの本殿は極彩色に復元されていました。本殿には近づけないので登彌神社に遊びにくるときは双眼鏡や望遠レンズのカメラもあると楽しめると思います。御朱印はガラスケースに入って300円で書置きをいただきました。駐車場もあるのでアクセスは良いです。公式サイトを見ると神前式の結婚式もできるようです。ニギハヤヒ由来の神社で結婚式は素敵だなぁ。
書置き 御朱印もあります この日はなかったので お願いして新たに書いていただきました。
比較的近所にあり大変立派な神社なので、結構な頻度でお参りと写活させて頂いております。拝殿、本殿、社務所すべてが立派です。HPにも記載されているように本殿等が登録有形文化財として登録されています。
| 名前 |
登彌神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0742-45-1117 |
| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
|
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粥占いが有名な神社。饒速日命をお祭りされています。雰囲気のある神社です。