奈良時代の足跡、国分尼寺跡へ。
国分尼寺史跡広場(飛騨国分尼寺跡)の特徴
高山の市街地に近い岡本町に位置しています。
奈良時代に建立された国分尼寺の遺跡です。
歴史深い飛騨国分尼寺跡は見どころ満載です。
飛騨国分尼寺跡は、奈良時代に聖武天皇の命で建立された国分尼寺の遺跡で、この地にあったとされています。1988年の発掘調査で金堂跡が発見され、基壇の規模や構造が明らかになりました。特に、前面一間分が壁や建具のない「吹き放し」の構造は、奈良の唐招提寺金堂と同様で、全国の国分寺・国分尼寺の中でも特異な例です。これは、飛騨の匠が都で培った技術を活かした証とされています 。
| 名前 |
国分尼寺史跡広場(飛騨国分尼寺跡) |
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| ジャンル |
/ |
| HP |
http://www.city.takayama.lg.jp/shisetsu/1004139/1000036/1001605.html |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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国分尼寺史跡広場(こくぶんにじしせきひろば)は、高山の市街地からほど近い岡本町にある史跡だ。ここは奈良時代に建てられた飛騨国の国分尼寺跡で、地元では辻ヶ森三社(つじがもりさんしゃ)という神社境内の地下から発見された歴史的な遺跡なんだが、ちょっとやそっとの遺跡とはワケが違う。741年(天平13年)に聖武天皇が全国に建立させた国分寺・国分尼寺制度の一環として造営されたのが飛騨国分尼寺。その目的は仏教による国家安泰の祈願で、国ごとに僧寺(男僧の寺)と尼寺(女僧の寺)が一対となって建てられたわけだ。当時、尼寺は10名の尼僧が常駐し、国から与えられた土地(10町の荘園)をもとに運営され、毎月8日には国家の平穏を祈る経典を読み上げることが定められていた。飛騨国分尼寺の創建年代は発掘調査の結果、746年頃(天平18年)とほぼ確定されている。同じ時期に僧寺の飛騨国分寺(現在も高山市内に存在する)が建てられたため、飛騨盆地一帯に政治・宗教の中心地が形成されていたことになる。この遺跡が特別な理由は、発掘調査の結果判明した寺院の構造だ。1988年に金堂跡が発見され、そこから驚くほど詳細な構造が明らかになった。金堂基壇(建物の基礎)は、幅約32.8m、奥行約19.7mという堂々たるサイズで、基壇の上には桁行7間×梁間4間の巨大な建物が建てられていた。これだけでも地方寺院としては大規模なのに、さらに金堂の南側正面1間が開放的な「吹き放し構造」であったことが判明。これは奈良・唐招提寺の金堂と同じタイプで、日本全国の国分寺・尼寺を見渡しても他に例がないというから驚きだ。飛騨は当時から職人(飛騨の匠)を輩出した土地だが、都の最先端の技術が直接持ち込まれたことを示している。出土品にも重要なものが多く、須恵器や灰釉陶器、瓦などが大量に見つかっている。灰釉陶器が示す年代から考えて、この寺院は10世紀後半まで存続していた可能性が高い。実際、基壇の内部に使われていた瓦片や陶器片がその説を裏付けている。また2003年の調査では、金堂の北側に講堂跡も見つかり、寺院全体の規模や配置がますます明らかになっている。面白いのは地域との関係性だ。この場所には今も辻ヶ森三社という神社が建っているが、これはもともと国分尼寺が廃絶した後、鎌倉時代に飛騨国分寺から移築された観音堂や仁王門が置かれ、その跡に白山比咩神社など3社が合祀され、地域の産土神になったという歴史がある。その神社の本殿の真下から1988年に金堂跡が見つかったわけだから、地域の伝承と発掘調査が見事にリンクした例ともいえる。そして国分尼寺の旧本尊とされる聖観音像(重要文化財)は、現在も飛騨国分寺本堂に安置されている。この像が尼寺から移された経緯ははっきりしないが、寺院間の深い関係を示す遺物だろう。現在、史跡は高山市指定の文化財として整備されており、「飛騨匠の技・こころ」の日本遺産にも含まれている。金堂跡には礎石が復元配置され、当時の規模感や構造を体感できるようになっている。また周囲には飛騨国分寺跡をはじめ、古代の遺跡が多数点在するので、セットで巡ってみるのもおすすめだ。国分尼寺跡は地方の小さな遺跡に見えて、実は全国でも非常に稀有な存在だということがよく分かる場所だ。奈良時代に飛騨の地が仏教の一大中心地だったという史実を実感するには、これ以上ない史跡だと思う。