間々田稲荷神社の霊感を感じて。
稲荷神社(間々田)の特徴
間々田稲荷神社は宇迦之御魂神を御祭神とします。
熊谷市北西部の旧妻沼町男沼地区に位置しています。
御嶽山信仰の霊人様の碑が多数存在します。
スポンサードリンク
村の鎮守的な神社🙏御嶽山を、信仰する霊人様の碑が沢山あります🙏
スポンサードリンク
| 名前 |
稲荷神社(間々田) |
|---|---|
| ジャンル |
|
| HP | |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
|
スポンサードリンク
周辺のオススメ
スポンサードリンク
スポンサードリンク
間々田稲荷神社(ままだいなりじんじゃ)御祭神 宇迦之御魂神由緒間々田は、旧妻沼町男沼地区の集落で、熊谷市の北西部に位置します。古くは幡羅郡間々田村といいました。「新編武蔵風土記稿」幡羅郡の間々田村の項には「間々田村は原郷と唱ふ、庄領の名。民戸九十八、東西十八丁余、南北十五丁、東は出来島村、南は太田村、西は上野国新田郡前小屋村、北は利根川を隔て、同国同郡堀口村なり。」と記述されています。間々田は、利根川右岸の自然堤防上に位置し、その地名は崖を示す「マフチ」に由来します。村の開発は江戸初期のことと伝え、「風土記稿」によると、別当は地内の真言宗嘉門山霊鷲院長裕寺でした。神仏分離により長裕寺の手から離れ、明治八年(1875)に村社となりました。明治の中頃までは、神社の床下に白狐が住み着いていたことから、氏子は参詣のたびに白狐の好物である豆腐や油揚げを供えていたといわれています。また村人が災難に見舞われる兆しが生じると、前の晩にこの白狐が鳴いて、人々に知らせたとの逸話も伝えられています。明治期から大正期にかけて養蚕の最盛期で、神職や氏子総代らの働きかけにより養蚕講が結成されていました。拝殿にかかる明治四十年(1907)の繭額は、この養蚕講により養蚕倍盛の報賽として奉納されたもので、「国一」「大白龍」を始めとする各種の繭が納められています。これには、妻沼村・男沼村・小嶋村・太田村・利根村・明戸村・尾嶋村など近在の村の名が見え、その信仰圏を知ることができます。明治四十一年から翌四十二年(1908~1909)にかけて、伊勢坪の事任社(ことのまち)、神明社、北河原坪の羽黒社、諏訪廓の諏訪社、天神坪の天神社・八坂社の計八社を境内に合祀しました。本殿には、稲荷神の本尊で、福徳を授け盗難を除けるといわれる荼枳尼天像が奉安されています。また、拝殿格天井には、狩野派の流れをくむ西倉重右衛門の水墨画「天竜図」が描かれています(「埼玉の神社」参照)稲荷神社の拝殿には、狩野派の流れをくむ西倉重右衛門の水墨画「天竜図」が描かれていましたが、現在は色落ちしてしまい見ることができません。昭和五十九年(1984)に奥殿の改修と併せて、日本画家岡田雄皝と地元の有志たちが共同で制作した格天井画が描かれています。岡田雄皝は、精緻美麗な花鳥画を得意し、海老と雀を描かせたら日本一と呼ばれるほどの、埼玉画壇では大きな存在です。「間々田稲荷神社古墳」社殿は小高い塚の上に建てられ、周りの欅が包み込むように枝を広げています。江戸時代は利根川を行き来する船から、目印になったと想像できます。埼玉県古墳詳細分布調査報告書に「円墳30m、円墳、塚の可能性あり」と記されています。熊谷市指定無形民俗文化財「間々田万作おどり」例祭である初午には万作踊りが奉納されています。万作踊りは、現在熊谷市指定文化財として、地域で継承されています。太鼓、四つ竹等の楽器を使って、浴衣や長襦袢、白足袋姿で手踊り、手拭い踊り、笠踊り、扇踊り等を踊る江戸時代から続く庶民の伝統芸能です。(「埼玉の神社」及び「熊谷市HP」参照)