紀元前からの安らぎ、火雷神社。
火雷神社の特徴
長い参道が印象的で、心安らぐ雰囲気が漂う神社です。
紀元前29年創建の歴史深い火雷神社を訪れる価値があります。
延喜式神名帳にも記載される由緒ある上野国八宮です。
火雷神社(からいじんじゃ)は、紀元前29年に創建されたと伝えられています。祭神は、火雷神 (ほのいかづちのかみ)です。雷の猛威に対する畏れや稲妻と共にもたらされる雨の恵みに対する農耕民族であった古代日本人の信仰から生まれた神と考えられています。この神社は式内社です。利根川右岸に鎮座しており、左岸に鎮座する倭文神社「上野国九宮、上之宮」に対して「上野国八宮 下之宮」と称されます。本殿は三間社流造で、江戸時代の正保2年(1645)に造営され、以後修復を繰り返えされています。
延喜式神名帳の上野國那波郡の項に記載のある式内社で、上野國八宮。境内の案内によると、景行天皇の御代、上野國を治めていた御諸別王が火雷命を祀ったのが創祀という古社。御祭神は火雷命だが、一説には火産霊命と香々背男を祀るともいいます。当社鎮座地の北、利根川を挟んだ北1キロのところに式内社で上野國九宮の倭文神社があります。当社が香々背男を祀る社であるとすると、倭文神社があるのも納得できます。当社は下之宮とも呼ばれるのだが、対して、北にある倭文神社は上之宮と呼ばれているので、古来、両社はペアとして考えられてきたのでしょう。当社には、倭文神社と同様、古代の祭事ともいわれる特殊神事が伝えられています。麦蒔ゴジンジ:ゴジンジとはご神事のこと。貞観四年(862)に始まった五穀豊穣災難除けの秘密神事。旧暦の十月末の午の日の丑の刻に行われるという。ところで、北を流れる利根川は中世までは、もっと北を流れる現在の広瀬川が流路でした。それが14世紀以降、今の玉村のほうに流れを少しづつ変えて、天明の浅間山の大噴火(1783)にも流れを変えているようです。そのため、このあたりは長い間洪水が多く発生したこともあって、少し下の地層は砂と礫が多く出てきます。結果としてとても水はけのよいことから、梨や麦が多く生産されていて、とくに麦の生産は本州では第一位の生産量ということで、神社に行く途中もまさに小麦色の麦畑が広がっていました。
式内小社、上野国八宮。旧郷社。主祭神:火雷神 (ほのいかづちのかみ)。創建:第10代崇神天皇元年(社伝)。第12代景行天皇の代に、東国に派遣された御諸別王(みもろわけのおう、崇神天皇四世孫)が、上州名物の一つになっている雷の神様である火雷神を、当社に祭祀したとも伝わっています。延喜の制では小社に列し、上野十二社の八の宮として、上野国の延喜式神名帳に従一位火雷大明神と記載されているとあります。鎮座地の地名「下之宮」は、当社に由来するとされており、利根川を挟んで「上之宮」の倭文神社と対峙するが、中世の利根川変流まで両社は地続きであったそうです。配祀神も多く、その中でもご当地上野国那波郡に関わる魔物退治の伝説のある那波八郎命があります。また、雷を落とす雷神として恐れられていた天神様・菅原道真命も合祀されています。手水舎の水盤は、道真公が特に好んでいたと云われる梅の花の形を基礎として造られたもので、鬼瓦にも梅花を配していました。入口の社号標のすぐ右手は防火水槽になっていますので(火雷の神様らしい)、付近は駐車禁止なのでご注意ください。
ほのいかづち神社。こじんまりしていますが、上野国延喜式内社です。社務所は不在で、総代宅で御朱印を頂きました。本堂に総代宅への案内あります。
宮司常駐では無いので御朱印は頂けませんでした。また、手水舎にもお清め水もありません。本殿が格式に比べて豪奢な印象で透かし彫りもあり立派でした。利根川の左岸にある神社倭文神社と対になっており、こちらが「下之宮」と呼ばれています。
| 名前 |
火雷神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0270-65-2305 |
| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
|
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長い長い参道、様々な雑木林に囲まれた中に紅梅の花、2月の寒空の中に咲く愛らしく可憐なその姿に、とても心は安らぎます。大きな杉の御神木、境内はとても広く、素朴ながらも社殿やその雰囲気は風格に包まれ、威風堂々としてとても感動致しましす。