織田信長ゆかりの日置神社。
日置神社(日置八幡)の特徴
大須観音の近くで、静かにリラックスできる場所です。
毎月28日のひなた市では、地域の活気を感じられます。
織田信長が戦勝祈願した由緒ある神社、境内に雅やかな風情があります。
とてもきれいな神社です。インターホンを押すと御朱印を書いていただけます。
ジョギングで早朝に訪問した。大きな通りから少し入った所のお寺の隣にある。ずいぶんと立派な神社だなと思ったら式内社だった。立派なわけだ。住宅街の中にありここだけ凛とした雰囲気ある。
延喜式にも記されていたので「式内」と冠されているほど由緒ある神社。大きな木々が繁り、境内を清涼な空気で満たしてくれる。織田信長が桶狭間出陣の際願掛けをし、勝利した後千本の松を奉納したと言われそうです。尾張徳川二代目藩主もお祀りされています。右手に龍神、左手に稲荷、大黒・恵比寿、天神さまのお社があり、西側の道路に出ることができます。
大須の南側にある立派な神社で徳川ゆかりの神社。鳥居をくぐると神聖な雰囲気に包まれ目の前には立派な拝殿がある。境内社も立派、そして至る所に御神木がある。
初詣は大須観音にはとても近づけないほど混んでるので最近は日置神社にお詣りに行ってます太鼓叩かせてもらったり、甘酒やお餅の振舞いがあったりと とても親近感を感じる神社⛩️です。今年は寒くなかったので焚き火の近くにはあまり人だかりがありませんでした。
毎月28日に境内で「ひなた市」が開催されます。小ぢんまりとしたマーケットですが、アットホーム的な雰囲気があります。近くの東別院で毎月8日、18日、28日に「手作り朝市」が開催されますし、大須観音でも毎月18日と28日に「骨董市」が開催されるので、東別院から日置神社に寄って大須観音に向かうのがオススメです。
延喜式式内社、由緒正しき神社。社殿の趣き深い上、巨木も多く名古屋の中心に位置しているとは思えない佇まい。郷土の英傑・織田信長公との縁も有るようで通りがかりに寄ってみて良かった。
境内にある廣富稲荷社の狛狐がとても印象に残りました。長い歴史ある日置神社には、多くの御神物が祀られており、どれも趣深いものでした。千本松原が植えられたこの地は、松原の地名の由来となっているそうです。
織田信長が桶狭間の戦いに行く途中に戦勝祈願に寄った神社の1つです。恵比寿社と稲荷社があり、尾張藩二代藩主を祀る橘社も有ります。
| 名前 |
日置神社(日置八幡) |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
052-321-5241 |
| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
|
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日置神社(ひおきじんじゃ)。名古屋市中区橘。式内社(小)、旧郷社。主祭神:天太玉命 (配祀)品陀和気命 天照皇大神【関係氏族】日置氏(日置部)資料によると、創祀年代については不詳であるが、当地に居住した日置氏(日置部)によつて奉齋された。平城京から「尾張国愛智郡草部郷日置里」と書かれた木簡が出土しており、奈良時代にはこの地域が「日置里」と呼ばれていたようである。「日置」という名称については不明な点が多いが、暦を司る日置部に由来するという説がある。神社周辺には大須古墳群や旅籠町遺跡など古代の遺跡が複数確認されている。神階については『尾張国内神名帳』貞治本は「従一位上 日置天神」、国府宮本は「従三位 日置天神」としている。中世になって、山城国男山より八幡大神を勧請して合祀したという(京都東山五条北の若宮八幡宮とも)。永禄3年(1560年)5月、織田信長が桶狭間の戦いへ出陣する折、早朝に清洲城を出て本社に到り、敦盛を舞って戦勝祈願を行い、軍勢の集結を待ってから熱田神宮へ向かったとされる。織田信長は戦勝後、報賽のため神域に松樹千本を植えた。これより「千本松日置八幡宮」と呼ばれた。とあります。参考として、『延喜式』神名帳に載っている日置神社は、尾張以外に信濃、近江、若狭、加賀、越中、但馬にもある。 日置は”ヒヲキ”または”ヘキ”と読ませる。日置の由来には諸説あり、はっきりしたことは分からない。日招きや日読みから転じたとする柳田国男や折口信夫の説、戸置という意味で民戸をつかさどるとする伴信友説、日にまつわる祭祀に関わる一族という説などがある。大和国葛上郡日置郷の他、各地に日置郷があった。日置部の部というのはヤマト王権における部民制(べみんせい)のことだ。特定の職業・技能集団をいう場合と、王族や豪族に従う一族をいう場合がある。今でも使うことがある語部(かたりべ)などもそうで、陶器を焼く一族なら陶部(すえべ)、錦の織物を織る一族なら錦織部(にしこりべ)というようにたくさんの部民があった。物部も本来は物(モノ)の部民ことで、モノは神であり鬼を意味した。一方、豪族に従う一族には、大伴部、蘇我部、尾張部などがいた。日置部については、はっきりしたことは分からないものの、祭祀を司る一族ということはいえそうだ。日を読むことから暦を作ったとか、日は火に通じることから鍛冶や土器作りを行ったともいう。とあります。