歴史と連歌の神社、酒折宮へ。
酒折宮の特徴
酒折宮は日本武尊を祀る歴史ある神社です。
境内には連歌発祥の地としての文化的魅力があります。
不老園の梅を楽しんだ後、神社での参拝ができます。
由緒ある神社です。こじんまりとしており、参拝者も少なく、ひっそりとしています。心は清められます。4台程停められる駐車場が手前にあります。
山梨県甲府市「酒折宮」御祭神:日本武尊創建年:?住所:山梨県甲府市酒折3-1-13歴史的スポット。甲府凄いっすね!こちらの神社は「連歌発祥の地」です。日本武尊がこの地に滞在中、東方遠征の帰路に寄った常陸国(茨城県)を出てから何日経ったのか?という歌を読み家臣の返答を待っていたら焚き火番の老人が歌で10日ばかり経ちましたと返答。これが今のラップバトルのルーツではなくて連歌の始まりです!こちらの老人はこれにより昇進♫和歌・連歌ドリームです。山梨で「古事記」「日本書紀」に出てくるのはこの神社だけ。非常に歴史があります。武田氏が滅亡してから社領は減らされましたが連歌発祥の地という事で文学者や学者が訪れるスポットとなっているようです。境内は木々に囲まれた良い雰囲気です♫鳥居の前は中央本線。ワイナリーも近く色々と組み合わせて参拝ができます♫
山梨県甲府市のJR中央本線『酒折』駅から徒歩で約5分程の地に鎮座する小さな神社。古代の歴史書の古事記や日本書紀に神社名が書かれた神社で日本武尊を主祭神として祀る、神社の由緒によれば、日本武尊が東国征討の帰り神社に立ち寄った夜に家臣達に歌で問いかけたが返答なく身分の低い焚火番の老人が歌で返答をした、尊は喜んだとの事でこの逸話が起源となり神社は連歌発祥の地と言われる様です。神社創建当初は山の中腹に鎮まり、後に現在地に移った様です、街の中心街を貫く線路を走行する鉄道車両の音が鎮守の杜に響く何となく心地良い気分を感じたのは私だけかもしれない。参拝後無人と思えた社務所に人影を見つけ御朱印を頂いたありがとうございます。
酒折宮(さかおりのみや)の創建年代は不明です。和銅5年(712)に編纂された古事記及び養老4年(720)に編纂された日本書記に記載のある神社です。 祭神は古代日本の国土を平定した日本武尊(72~133)です。日本武尊は、第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父です。日本武尊が東夷征討の帰路、塩海足尼(しおみのすくね:甲斐国造)を召して、「汝はこの国を開き、益を起こし国民を育てよ、わが行末はここに鎮座すべし」といわれ、叔母である倭姫(やまとひめ:垂仁天皇の皇女)から授けられた火打嚢(ひうちぶくろ:腰に下げる装身具の一つで,皮,ラシャ、高級織物でつくられ,口を緒でくくり,中にお守札,金銭,印形などを入れるのに用いたもの)を賜わった。のち社殿を建立し、その火打嚢を御霊代として奉祀したと伝えられています。日本武尊は、東夷征討の帰路、酒折宮においでになった。灯をともしお食事をされ、この夜、歌を作って従者にお尋ねになって、こう言われた。新治や筑波を過ぎて幾夜寝ただろうか(新治筑波過幾夜寝)従者は答えられなかった。御火焚の者が、皇子の歌の後を続けて歌って、日数を重ねて、夜は九度、昼は十日でございます(計夜九夜日十日)とお答えした。御火焚の賢いのを誉めて、厚く褒美を与えられた。この時の歌のやりとりが、複数の作者によって詩を連作する連歌の発祥であると伝えられています。
特別な時期以外には参拝客はいない。平坦なので参拝しやすい。
インターネットで調べて参拝させて頂いた山梨にある日本武尊命様を祀る小高い山にある神社です。神社の入口は踏切側と東側の2つあります。小さいお宮ですが社務所はあります。駐車場は踏切の近くにあります。石碑が2つあり日本武尊命について書いてあります。古事記や日本書記に書いてある神社のようです。参拝させて頂いた日は神社の祭行事があり神社関係者が1人いて祭で余ったお弁当を家族分頂けました。旅先で立ち寄らせて頂いただけなのに人の優さを知るご利益を頂けました。本当にありがとうございました。
いつも近くには行っていたのに、お参りすることがありませんでした。日本武尊様奉られ、日本連歌発祥の地とされる大変歴史のある宮。こじんまりしていますが、とても心地よい場所。社務所があり、御朱印もいただきました。線路渡り、右側に駐車場あり、酒折駅から徒歩7分位。
2022年12月29日 甲府駅から1駅🚋 初めてのお参り😊サイトで社殿を拝見して行ってみたいと思いました。忙しい中 御朱印書いて頂きありがとうございました。良いお年を…と声をかけて頂き嬉しくなりました😊
静かな森の中にある宮で近かくには梅の名所である不老園があります連歌の発祥の地として文人墨客の訪れる人が多いそうです。又紅葉も綺麗でした。
| 名前 |
酒折宮 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
055-231-2690 |
| HP | |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
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酒折宮は日本武尊の東征の際、行宮として設けられた酒折宮に起源をもつ神社で、連歌発祥の地とされています。尾張から相模・上総を経て蝦夷に至った東征の帰路、日本武尊は相模の足柄峠から甲斐国酒折宮へ立ち寄り、信濃倉野之坂を経て尾張へ至りました。甲斐国酒折の地に着くと、日本武尊は甲斐国造に任じて火打袋を授け、「行く末はここに鎮座しよう」と宣言し、その火打ち袋を神体とする社殿を造営しました。滞在中のある夜、日本武尊は家臣にこう歌って問いました「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」(常陸国の新治・筑波を出て、ここまでに幾晩寝ただろうか)家臣が答えられずにいると、身分の低い焚き火番の老人が答歌しました。「日々(かが)並(なべ)て 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を」(指折り数えてみますと九泊十日かかりました)日本武尊はこの老人の機知に感嘆し、東国造に任命したといいます。酒折宮伝承のこの逸話が後世に連歌の発祥として位置づけられました。江戸時代に現在の酒折宮を記紀に記される「酒折宮」に比定する認識が広まりました。甲斐における名所の1つとして多くの文人らが来訪し、歌川広重『甲州日記』にも描かれています。