信玄公の墓と歴史に触れる。
武田信玄公の墓の特徴
武田信玄公の墓は武田神社から徒歩約10分の静かな住宅街にあります。
清掃が行き届き、地域の方々に大切にされている場所です。
歴史上の偉大な武将の墓として、特別な雰囲気が漂っています。
荼毘に付された武田信玄が埋葬されたとされる場所。付近に駐車場はなく、周辺の道もとても狭いので車での来訪は注意が必要。
信玄公の遺体を火葬した場所だといわれ、火葬塚とも呼ばれています。 信玄公の墓はこのほか、山梨県内では大泉寺、恵林寺、長野県の諏訪湖、長岳寺と竜雲寺、和歌山県高野山、愛知県福田寺、京都の妙心寺など全国にあります。 これは信玄公が遺言によって、喪を3年間秘めていたことや万一の外敵を恐れて、埋葬地を秘密にしていた結果ともみられています。
武田神社に寄った後にこちらの信玄公の墓にお伺いさせていただきました。前面道路は細く少しわかりずらい場所にひっそりとあります。武田信玄のお墓ときくとさぞかし立派なものをイメージしてしまいますが、そこまで大きくありません。駐車場は向かいにある教育センターの駐車場を利用していいようです。武田神社に寄った際にはぜひこちらに行くことをおすすめそます。
武田晴信❖信玄公の火葬塚。地域の皆様が大切に管理しており、持参したお線香をあげることができました。ありがとうございました。御館様が今も地域の皆様に慕われていることに感銘を受けました。
信玄公の死後およそ200年後に、この場所で信玄公の遺骨が納められた石棺が発見されたとのことです。とても綺麗に整備され、近くには無料の駐車場もあります。しかし発見された石棺は偽物だと述べる歴史学者もおり注意が必要です。説明板の要旨は、①発見された石棺には信玄公の名前や死亡日などが書かれていた。②信玄公の遺体は土屋昌続邸に安置され、そこで火葬されたと言われている。その土屋邸は岩窪にあったとも言われている。③岩窪は「魔縁塚」と呼ばれ、人が恐れ近づかなかった場所。よって信玄公の遺骨で間違いない、とのことです。しかしそれに対する反論する意見もあり、①遺体の安置場所が土屋邸というのは後世の作り話。また土屋邸の場所も岩窪ではない。②石棺に書かれた信玄公を火葬したとする年が一次資料と異なる。③石棺が見つかった年は幕府が信玄公が作った甲州枡を廃止しようとした時期で、甲府では反対運動が盛んだった。などなどの理由から恐らく、遺骨の発見という一大イベントから信玄公を顕彰する気運を盛り上げて、甲州枡の廃止を幕府に思いとどまらせようとしたのではないか?そのために石棺を偽造したのではないか?とのことです。ただし、岩窪が「魔縁塚」「火葬塚」と呼ばれていたことは間違い無いそうで、ここで信玄公が火葬された可能性はあるとのことです。
武田神社から歩いてこちらに訪問。綺麗にされていて、雰囲気もとても良かったです。(霊感はない人間なので、参考程度にみてください)でも、個人的には、ここに信玄は眠っていない気がします。空気と雰囲気がスッキリして、晴れやか過ぎる気がしました。なんというか怨念というか、気合というか、エネルギーというものがあまり感じなかったためです。「武田信虎公を含む武田家三代の墓(信虎公、信玄公、勝頼公)」の方がよっぽど、そういうモノを感じましたね。
被葬者:武田信玄公天正元年(1573)4月12日、信州伊那駒場で53歳の生涯を閉じた武田信玄公は、万一の外敵を避けるためか、その死を3年間秘密にするよう遺言を残したと言われています。3年後に塩山の恵林寺で葬礼を行い、埋葬されましたが、死を隠していた3年の間葬られていたのがこの場所と伝えられています。また、火葬が行われた場所とも伝わるため、火葬塚とも呼ばれています。拝:2024/07/13
訪れた日がちょうど信玄公の月命日の12日だったので、どこかのお寺の神主さん?がお供え物をしていました。あまり長居してはいけないと思い、ドローン合宿山梨校での一泊二日が無事に終了するようお願いしました🙏
武田信玄公のお墓、慰霊碑は全国に複数あります。著名なところでは、武田神社、大泉寺、恵林寺、高野山、長岳寺などです。歴史上の偉人のお墓が複数あるのは、珍しいことではありませんが、信玄公の場合、どこで亡くなったのか、埋葬されたのかが明らかではありません。それは、言うまでもなく、信玄公の死は当時の超国家機密で、対外的には信玄公は生きておられる、と振る舞っていたからです。(信玄公の没後、しばらくの間は弟君の逍遙軒信廉さんが影武者として対外的な折衝にあたりました)本墓地の説明板には、この地で信玄公を「荼毘に付し」とありますが、ここでいう荼毘とは必ずしも火葬のことではない、つまり葬儀のこと、と推察します。私自身は、信玄公のご遺体が荼毘に付された(火葬された)のは、勝手ながら長野県阿智村の長岳寺付近であると推察します。その論拠は以下の通りです。まず、1573年、野田城の戦いを最後に、それまで破竹の進撃を続けていた武田軍は急遽、進軍を止めます。そして、伊那街道(三州街道)を通って、本拠地まで戻ったと思われます。(それ以外のルートは徳川領で、敵中を退却ルートとするのは不自然です。)信玄公と共に行軍を続けていた医師の御宿監物が小山田信茂(妻が御宿監物の妹)に宛てた手紙によれば、信玄公は三州街道上の信濃国駒場にて亡くなったとあります。また、長野県佐久市にある、龍雲寺は古くから信玄公埋葬の地という伝承がありましたが、1931年、庭園から遺骨と遺品の収められた壺が発見されました。その中に、大檀越信玄、時に天正元年四月十二日駒場に於いて卒という文言がありました。駒場という地名のついた場所は無数にありますが、長岳寺そばにも駒場(こまんば)という地名があります。さらに、長岳寺には、黄金の兜の前たてがあり、専門家の鑑定では、室町時代後期のものである、とのことでありました。この前たて、同型のものが山梨県甲府からも出土しており、武田家とのつながりが強く推認されます。そして、長野県阿智村という僻地(大変に失礼)に、これほど見事な金細工がある事自体が不自然です。これらの証拠から、推論されるのは、以下のストーリーです。信玄公は野田城の戦いの後、病状が悪化し、伊那街道(三州街道)を通って甲府までお戻りになろうとしたものの、さらに病篤く、駒場周辺でお亡くなりになりました。ときは1573年旧暦4月12日、現在の新暦では5月中旬の頃合いです。当時は冷蔵、冷凍保存という技術はありません。5月中旬といえば、ご遺体の傷みは早く、信玄公のご遺体をそのまま甲府に運ぶということは不可能でありました。そこで、お亡くなりになった場所からそれほど遠くない地点で荼毘に付されたと推察します。阿智村には不釣り合い(大変に失礼)な黄金の前たては、信玄公が亡くなった、荼毘に付した等の謝礼として寺に寄進したものではないか、と推察します。このような理由で、私は長岳寺を武田信玄公が荼毘に付された場所、と推察するのであります。本墓地は、すでに遺骨となられた信玄公を弔う儀式を行った場所ではないか、と推察します。信玄公がお亡くなりになった三年後、公の遺言に従い、まず躑躅ヶ崎館(信玄公がお住まいであったところ)の近くで近親者が集まる葬儀を行い、改めて遠方の恵林寺で大々的に葬儀を行ったのではないか、と推察します。本墓地からは、信玄公の銘の入った石棺は出土したようですが、信玄公の遺骨があるのかどうか、それは不明と考えます。とはいえ、公ほど偉大な方であれば、遺骨があろうとなかろうと、そのご偉業をたたえ、なつかしむことは可能でありまして、本墓地はまさに尊い場所なのであります。長々とありがとうございました。
| 名前 |
武田信玄公の墓 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
055-237-5702 |
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
|
周辺のオススメ
幼稚園の横にひっそりと祀られています。信玄公のお墓は何カ所かありますが、この辺りで火葬され遺言どおり三年間隠されていた場所らしいです。