美和神社で静かに心癒す。
美和神社の特徴
由緒正しい甲斐国二宮として静かで落ち着く境内です。
拝殿前にある立石が興味を引く神社の特徴です。
宮司さんからの授けや参拝手順が面白く教えてもらえます。
御祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)です。古事記などでもその存在が明るみになっていない“幻の神様”です。とある古文書によると大物主命は日本全国に農業や薬学など生きるために必要な知恵を教え広めた神様(一族)です。七福神の恵比寿天や大黒天に深い関わりがあるそうですね。もっと調べてみます。感謝。
大晦日の晩から元旦に至るちょうど日付と年が変わる時間帯に訪れ和太鼓を打ってきました。初詣に見えた参拝客の皆さんの運気が上がり天下招福と無病息災を祈念して初打ちを行いました。境内には大きな焚き火がたかれ手をかざせば暖かく、お参りが終わると宮司の方々から切り餅とみかんを頂きました。御利益をたくさん頂いた気がしました😄
長い参道に広い境内ですが、そのほとんどが公園になっているので、神社の敷地自体は街中のコンパクトな神社といった感じです。とはいえ甲斐国二之宮にあたる歴史の古い神社で、その由緒は景行天皇の時代(4世紀前半)にまで遡るとのことです。武田氏から厚い保護を受け、社領の寄進を受けたりしています。特に信玄公の嫡男・義信公が厚く信仰しており、銭や太刀を奉納しています。義信公が美和神社で謀反の決起集会を行ったという説もあるそうです。社宝は「朱礼紅糸素懸縅胴丸佩楯付(あかざねべにいとすがけおどしどうまるはいたてつき)」というとても長い名前の甲冑で、武田信玄公が元服の際に着用した甲冑と言われています。境内には保管する文化財の目録の説明板もあり、貴重なものばかりでした。
甲斐国二宮ということで由緒正しい神社です境内はあまり広くないですが開放感あるのに静かで落ち着く良い雰囲気です拝殿前の立石について気になりましたが、特に何の説明もないです。
甲斐国一ノ宮浅間神社を参拝した後に、こちらにも訪問。しかし浅間神社とは全然様子が異なり、常駐している神職の気配も無ければ参拝者も見かけられない。境内の整備度合いも微妙であり、地元民以外に参拝者が訪れることは珍しいのかもしれない。
道が細くて、行きずらいです。駐車場は広いです。社務所は閉まっていて、電話するも留守番電話でした。遠方からのお参りで時間が迫っていたので、御朱印は断念しましただけ。せっかくの二宮なので、書き置きでも置いていただけると助かります。
仕事の関係で行きました。出来たら、神宮とかに行きたいです。神宮は、神社より、格上のところなので出来たら、毎年、有名な、伊勢神宮に行って、お守りを買いたいです。美和神社は、まぁまぁでした?
二ノ宮なのに無人の御朱印、御守りなし。地元の公民館みたいでした。
こ授けの御利益があるとか。
| 名前 |
美和神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
055-262-2618 |
| HP |
http://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/3029 |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
|
周辺のオススメ
美和神社(みわじんじゃ)。山梨県笛吹市御坂町二之宮。国史見在社、甲斐国二宮。旧県社。主祭神:大物主命(おおものぬしのかみ)資料によると、美和神社は甲府盆地東部に位置し、町域北西部の二ノ宮地区に鎮座する。古代甲斐国においては盆地中央北縁にあたる笛吹市春日居町に前期国府が所在し、笛吹市御坂町国衙近辺に移転したと考えられている。御坂町域は亀甲塚古墳や姥塚古墳など古墳時代の中小古墳や二之宮遺跡などの集落遺跡が分布し、古代には国衙関係の遺構や史跡が分布している。律令制下では山梨郡井上郷に比定され、「二ノ宮」は国衙にも近接し美和神社に由来する。近世には二之宮村が成立し、美和神社を中心としてきた。二ノ宮地区に所在する美和神社は里宮として位置付けられており、二ノ宮から東に位置する尾山地区には山宮として杵衡神社がある。美和神社は三輪山を神体とする大和国(奈良県)の大神神社から勧請され、尾上郷の杵衡神社へ遷された後に新たに二之宮に遷座されたとする伝承が一般的で、『甲斐国社記・寺記』や『甲斐国志』に拠れば、由緒は景行天皇のころ甲斐国造の塩海足尼が勧請を行ったといわれる。初見史料は『日本三代実録』863年(貞観5年)6月8日条記事で、同日に美和神社は従五位に叙せられ、一条天皇から二宮の号を与えられたという。一宮浅間神社、三宮玉諸神社とともに、甲斐国の水防の祭儀を執行した。式内・桙衝神社の論社で、三代実録の貞観五年(863)六月八日に「甲斐國從五位下勳十二等物部神。美和神從五位上」とその名が見える国史見在社。桙衝神社のもう一つの論社に、八代町の鉾衝神社があり、多くは、そちらを式内社としている。とすると、二之宮として崇敬され、三代実録にも記された美和神社が、なぜ、式内社とならなかったのか、気になるところ。とあります。