延喜式神名帳の風情、冠嶺神社。
冠嶺神社(上栃窪)の特徴
延喜式神名帳に記載された論社の一社で、歴史的意義があります。
氏子の手入れが行き届いており、清々しい境内の雰囲気を楽しめます。
風情ある空間が広がる穴場スポットとして人気を集めています。
延喜式神名帳にも記載された流造の神社です。御祭神は少彦名命になります。参拝境内はきれいに手入れされており、大切に祭られていることが分かります。狛犬の立ち姿が厳つくて何とも味わい深いですね。御朱印は鹿島御子神社で頂きました。
延喜式神名帳の陸奥國行方郡の項に記載のある式内社の論社の一社。南相馬鹿島SICを出て、真野川に沿って飯舘村に向かう道路沿いに鎮座。道路に面して鳥居が立っていて、そこから真野川に向かって少し下ったところに鎮座する。境内の案内によると、御祭神は少彦名命で、相殿に彦火々出見命を祀る。日本武尊が東夷征伐の際に道陸神山(=堂六神山)に陣をはり、猿田彦命を祀る祭祀を行ったという。その後1230年に氏子によって、道陸神山から現在の鎮座地に遷座し、江戸時代に冠嶺神社に社名を変更し、祭神もそのときに変わったようである。
風情あるいい感じ 穴場だね。
あさに、急いで行ったのですが、氏子の手入れが行き届いているようでした。14年に1回神社の手入れをしているようです。ありがとうございました。
| 名前 |
冠嶺神社(上栃窪) |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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冠嶺神社(さかみねじんじゃ)。福島県南相馬市原町区信田沢戸ノ内。式内社(小)、旧村社。【祭神】少彦名命資料によると、江戸時代の宝永・正徳年間(1704年-1715年)の頃、祠官であった大田九太夫の家が絶えたため、羽黒派修験である山覚院が代わりに祭祀を行った。天明年間(1781年-1789年)から住民が減り、文化年間(1804年-1818年)には村里も社殿もことごとく荒れ果てたという。当地の農夫が御神体を民家の小祠へと遷座し、これを隠し、長年に渡り本山派修験の大学院が祀ったという。時が経ち、この農家も絶えてしまったため、冠嶺神が村の小祠に祀られたということも忘れ去られてしまっていた。他の村から佐藤氏という者がやってきて、冠嶺神を祀っていた農家の屋敷へ住み始めた。佐藤氏は農業を営みながら、坂嶺の山にある小祠を修理して祀った。文化12年(1815年)、陸奥相馬中村藩11代藩主相馬益胤は、祠官社家と渡部美綱に行方郡内の式内社八座を調査し、特定するよう命じた。その結果、「冠嶺神社」「益多嶺神社」を特定することができなかった。文政2年(1819年)にも再調査されたが、村人の警戒もあって、ついに不明となった。安政年間(1855年-1860年)になり、二宮尊徳や二宮家が相馬へもたらした農業復興策「興国安民法」が奏功し、相馬藩の財政再建や荒廃した農村の復興が進んだ。万延元年(1860年)の春、当社の宮祠復興が命じられ、会津の名工である匠人の上杉主殿頭が社殿造営を行った。この頃には式内社「冠嶺神社」は当社に比定されたようで、論社とされた鹿島区上栃窪の同名神社に分祀したとの説もある。また、他の論社に鹿島区北海老に鎮座する鶏足神社が式内社名を名乗っていたが、当社のみが往古から式内社名を継承し、その御神体の古さも証拠とされた。とあります。