和布刈神社で歴史を感じる!
和布刈砲台跡の特徴
長州藩の砲台設置に関する歴史的な背景があります。
和布刈神社内の高い柵が印象的な史跡です。
外国船への砲撃という重要な役割を果たしました。
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和布刈神社内にある高い柵に囲まれて気づきにくい。周囲には砲台の後は見当たらないようです。
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| 名前 |
和布刈砲台跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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長州藩は海岸に砲台を設置し、 外国船への砲撃を行っていますが、 対岸の小倉藩にも使者を送り、 共に挟撃するよう要請しました。 具体的には田ノ浦と和布刈岬に、 砲台を築造するよう求めていますが、 小倉藩の動きは遅かったようで、 数十日後にやっと和布刈岬に砲台を築造し、 大砲を隠す覆い屋形を建てています。 この小倉藩の行動の真意を確かめるべく、 高杉晋作は奇兵隊士を和布刈に渡海させ、 対岸の状況を確かめさせました。 瀧弥太郎、赤禰武人らがこれを務め、 小倉藩の守備兵に砲台を見せてくれと迫り、 これを拒んだ兵と拒めている間に、 奇兵隊の1~2名がこっそり屋形を覗くと、 モルチール砲が一門あるだけだったという。 小倉藩は長州藩の要請を断り切れず、 形ばかりの砲台を築いていたようです。 これに怒った奇兵隊は小倉藩を問い詰め、 一緒に協力する気がないのならば、 こちらで田ノ浦に砲台を設置すると告げ、 奇兵隊が田ノ浦に駐屯する事となりますが、 和布刈砲台には以降も駐屯はされず、 そのまま捨て置かれたようです。 この跡碑についてですが、 その時の形ばかりの砲台跡を示すものか、 後の下関要塞の一部を示すものかは不明。 その形ばかりの砲台は日記等だけで、 地図や図面の無い砲台ですので、 ここが正確な位置かはわかりませんが、 長州藩に見せる為のものであれば、 和布刈神社の境内が理想的ではあります。