高嶺城の眺め、歴史と共に!
高嶺城跡の特徴
高嶺城跡は大内氏32代当主が築いたゆかりの地です。
続日本百名城に選ばれた歴史深い城跡です。
広大な城域は案内板を超える規模として驚きです。
車🚕で登れる所まで行って、そこから徒歩で山頂まで行きました。直ぐに着きますよ。昔は街が一望出来ていたのでしょうが、木が成長して、一部のみしか見えませんけど、見晴らしは良いですね👍
展望所の横から登ると連続大堀切♬が待ち構えてた埋もれつつ畝状竪堀群♬も見れた段郭♪に切岸♬を見ながら上部の広~い曲輪へ出て しばらく歩くと石垣♬に囲まれた主郭に着く段になってる石垣部分も多い主郭からの眺めは良く 回りには建物の礎石♪が並んでるさらに奥の尾根にも段郭♪に堀切♪草むらの中に鉄製ポンプ井戸が錆びて埋まってた途中の曲輪間の下部にも連続竪堀♬があってシッカリ畝が見えるさらにアンテナ下の段郭の一部に石垣♪が隠れてたなどなどなど 遺構てんこ盛りで眺めも良い 楽しめる山城だった標高338m、麓からの比高約290m
高嶺城は、大内氏32代当主 義長公が築いた城です。義長公は九州豊後の大友宗麟の弟で、大内氏最後の当主です。弘治3年(1557年)義長公は、毛利氏の侵攻に対し高嶺城で防戦しましたが、形勢不利になり長門国の勝山城に逃れた後、長府の長福寺(現在の功山寺)で自刃しました。義長公の自刃により、大内氏は名目上滅びました。大内氏滅亡後、毛利氏は城に手を加え城番を置いていました。永禄12年(1569年)豊後の大友宗麟の策略により大内輝弘が山口に攻め入ってきた時、この城には寄せ付けませんでした。元和元年(1615年)徳川幕府から一国一城令が出されたため萩の指月城だけを残し、高嶺城は廃城になりました。鴻ノ峰は標高338mです。その山頂には、高嶺城の遺構である石垣や井戸なとが現存しています。
かなり広大な城跡で、実際の城域は案内板よりも2倍はありそうです。電波塔から東側の遺構も確認するため、山口大神宮から登りました。40,50分位登ると、6,7段位の連郭式の曲輪があり、一部に石垣があります。この曲輪群の最高地にも案内板があり、隣に電波塔があります。電波塔脇から数段の曲輪の遊歩道を登ると、城域の中央の広い曲輪にでます。本丸周囲には石垣が築かれており、南側に毛利氏の積み方のようもの、北側は一番規模の大きい、西側にも部分的に積まれています。本丸北側にしっかり削平された連郭式の曲輪が10段弱続きます。本丸北西に堀切があります。本丸西側に数段の小曲輪と広い面積の曲輪があります。中央の曲輪の南西方向に降ると、この城最大の(連続)堀切があり、畝状竪堀があります。南西の稜線が緩く見え、厳重に備えたことが窺えます。山口大神宮から登ってすぐの箇所にも、やや不明瞭ですが砦跡が残るようです。
続日本百名城の174番築城は戦国大名大内氏最後の当主、大内義長しかしながら、完成前に毛利氏の侵攻の憂き目にあい城を放棄して逃亡。その後、毛利家が城を完成させた。目立った遺構は石垣が山頂部に残る程度。車で来る場合、テレビ塔のある所までは登ってこれる。山頂からは大内氏館も確認できる。
大神宮の外宮から登った。登りは石段のつづら折りが続く。2番目?の展望地の眺めが良かった。城跡本丸跡には石垣が結構残っている。登山はしんどいので車で登ろう。
| 名前 |
高嶺城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
083-934-2810 |
| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
|
周辺のオススメ
車で行く際は木戸公園、糸米川砂防園の看板を目印に左折してトイレのある駐車場で降りるのがいいです。ここから入口に入って電波塔までたどり着いたら残り500mで本丸にたどり着けます。本丸には野面積みの石垣が残っていて、景色は大内氏館跡を含む山口市内が一望できます。