北千住 赤門寺で閻魔大王とご対面!
勝専寺の特徴
江戸時代からの歴史を感じる、創建1260年の浄土宗のお寺です。
赤門寺の通称で親しまれ、閻魔様像が特に有名となっています。
1月と7月には賑やかな縁日があり、出店が多数並ぶ観光スポットです。
初めて参拝しました年に4日しか、拝めない閻魔大王様です(1月15日、1月16日、7月15日、7月16日)御朱印をいただく時に、寺宝の掛け軸を拝見しました六道輪廻を示したもので閻魔大王様が管理している世界を示したもののようですので、是非、寺務所を訪問してみてください。
お詣りした日:令和6年11月30日赤い門は閉まっていますが、門を左に向かった鐘楼の先の門が開いています。門扉に葵の紋がありました。本堂は、洋風です。境内に閻魔様、馬頭観音様もいらっしゃいます。
御朱印の種類も複数あり、丁寧に書かれています。年に2回のお祭りでは閻魔様を見ることが出来ます。とても迫力があります。
北千住駅西口近くにある寺院。ご本尊は阿弥陀如来で浄土宗の寺院です。そのほか、千手観音や閻魔大王などが祀られています。商店街の脇道に入ったところにあり、駅前の賑やかさとは打って変わって静かな境内です。本堂は少し変わった建物で洋風の教会のような趣があります。「赤門寺」の由来となった門は普段は閉じられており、参拝の際はレンガ造りの別の入り口から入れます。千住の地は古くから中山道、水戸街道の宿場町として栄え、江戸時代頃には将軍が鷹狩に訪れたこともあったとか。住職の手が空いていれば手書きの御朱印を頂くことができます。お寺の方々もとても丁寧な対応で嬉しかったです。
江戸時代に日光道中が整備された後、この寺の境内には徳川家の御殿が造営され徳川秀忠、家光、家綱らに利用されました。さらに日光門主の本陣御用を勤めた記録も残されていることから、千住宿の重要な拠点であったことが忍ばれる由緒ある寺院のようです。現在は本堂のほかに山門、鐘楼、閻魔堂が残っています。
1260年創建。赤門寺とも呼ばれます。新井政次という人物が荒川(現在の隅田川)に編みを投じたところ千手観音像がかかったことが寺の御由緒であるそうです。この千手観音は寺宝となっており、千住という地名の由来です。江戸時代は徳川将軍家の鷹狩の休憩所としても使われていました。閻魔像が安置されており、普段は非公開ですが、1月と7月の15日〜16日は閻魔開きとして公開されます。掲題にある鐘楼は明治時代に再建され、鐘の音が聞こえる当時の南足立、南葛飾、北豊島の三郡から資金を募って実現しました。その記念の碑文がはめ込まれているのですが、これは朝鮮から亡命した政治家・金玉均の筆です。しかし、彼とこの寺の関係は不明のままです。
浄土宗で本尊を阿弥陀如来。旧千住七福神札所で担当は毘沙門天尊(今は七福神札所ではありません。)、江戸44閻魔霊場39番札所です。この霊場調べてもいまいち出てきません。山門が赤い事から別名『赤門寺』とも呼ばれています。本堂はインドの寺院を模してます。閻魔開きには閻魔堂が御開帳され、今も縁日には露天が並びます。また千手観音が祀られ、こちらの観音様由来で『千住』の町が成り立ちました。
久しぶりに閻魔様とご対面。恐ろしい存在のはずの閻魔様ですが、昔からこの街を見守ってくれている気がします。
三宮神山大鷲院勝専寺といい浄土宗のお寺になります。「赤門寺」という別称で人々に親しまれている京都智恩院を本山とするお寺で、御本尊は阿弥陀如来です。御府内四十四カ所の閻魔様の参拝でお伺いしました。勝専寺は新井兵部政勝が開基となり、勝専社専阿上人を開山として文応元年(1260年)に創建されたといいます。勝専寺に祀られている木造千手観世音菩薩立像は、千住の地名起源の一つとされていて、新井兵部政勝の父正次が荒川から引き上げたという伝承を持っています。江戸時代には日光社参に際して徳川幕府将軍の御旅所となっていました。明治三十九年(1906年)に建立された本堂は、インドの某寺を模したという特徴的な形状をしています。ご住職様と奥様に丁寧な対応をしていただきました。
| 名前 |
勝専寺 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
03-3881-2358 |
| HP | |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
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煉瓦造りの塀に囲まれた寺院年に2回(4日間)、閻魔開きが開催され、露店が立ち並んで人で溢れるらしい。