由緒ある名神大社、敬満神社。
敬満神社(名神大社)の特徴
名神大社としての格式が高く、古代からの歴史を感じさせる神社です。
敬満神社の裏手には涅槃像に見える大尾山が佇んでいます。
遠州地域で名神大社は敬満神社と角避比古神社のみ、貴重な存在です。
蓬莱橋を渡ったら観光案内にこちらの名前があり、徒歩でここまで参拝することに。島台を歩き、抜けた先を途中の中條景昭像公園にも立ち寄りながら茶畑を延々と歩いてここまで辿り着きました。かなりの距離を歩いたかと思います。国幣大社で旧社格は郷社との事で相当歴史のある格の高い神社だというのが分かりますが、規模の大きな神社かと思ったら駐車場も無さそうな意外にもこじんまりした村の鎮守社といった感じで、やはり社務所も閉まっていました。公衆トイレはあるものの、誰ひとり人の姿もなく寂しい神社でした。本殿左脇の小さな境内社は木の鳥居も傾き、更に寂しさが増します。神事でも使うのでしょうか、隣の弓道場だけが矢鱈と立派でした。
静岡県島田市に鎮座するこの神社は、平安時代中期に編纂された『延喜式』の神名帳にその名を記された「名神大社」であり、日本屈指の由緒を誇る古社です。創建は第十一代の垂仁天皇二十六年(紀元前4年)という社殿が残っており、二千年を超える悠久の時を刻んできました。かつては大井川のほとりに位置していましたが、水害によって遷座。詳細な記録は残っていないようですが、棟札の記録によれば慶長二年(1597年)には現在の場所に鎮座しているようです。主祭神に敬満神を祀る格式高い場所ですが、2025年に参道左右にそびえ立っていた多くの巨木が切り倒されたことで、境内の風景は一変してしまいました。実際に切り倒された断面を目の当たりにすると、多くの幹が空洞化しており、参拝客の安全を最優先に考えた末の苦渋の決断であったことが伺えます。遠江國一宮として知られる小国神社などと比べると、どうしても寂しさが否めませんが、この地が守り抜いてきた二千年の歴史の重みは決して変わりません。これから数十年、あるいは数百年という長い歳月をかけて、かつての荘厳で神秘的な空気が再びこの境内に戻ってくることを心から願っています。
敬満神社(けいまんじんじゃ)。静岡県島田市阪本。式内社(名神大)、旧郷社。主祭神:敬満神(きょうまんしん/けいまんしん)。相殿神:少彦名命(すくなひこなのみこと)、天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、速須佐之男尊(すさのおのみこと)。合祀神:建御名方命(たけみながたのみこと) - 明治7年(1874年)合祀の諏訪神社祭神。事代主命(ことしろぬしのみこと) - 同じく合祀の諏訪神社祭神。阿遇突知命(かぐつちのみこと) - 同年合祀の愛宕神社祭神。御食都神(みけつかみ) - 同年合祀の三狐神社祭神。高皇産霊神(たかみむすびのかみ) - 同年合祀の天神社祭神。【関係氏族】秦氏祭神は『日本文徳天皇実録』では「敬満神霊」と見えるが、伴信友が『蕃神考』で主張して以来、その素性を秦氏遠祖の功満王に比定する説が知られる。この功満王は、『新撰姓氏録』によると秦の始皇帝三世孫の孝武王の子、かつ融通王(弓月君)の父とされる伝承上の人物で、仲哀天皇8年に渡来したという(ただし『日本三代実録』では出自・渡来時期の異伝を載せる)。功満王説では「敬満」が「功満」に比定され、また『続日本後紀』に遠江国蓁原郡の人として見える「秦黒成」の存在から、当地一帯に居住した渡来系氏族の秦氏がその氏神を祀ったものと想定する説がある。とあります。資料によると、創建について、社伝では垂仁天皇(第11代)26年のこととするが、詳らかではない。前述の通り、当地一帯に居住した渡来人の秦氏がその氏神を祀ったことに始まるとする説がある。鎮座地の変遷も詳らかでなく、『神名帳考証』では古くは大井川付近にあったが水害により現在地に移転したとする。棟札からは、少なくとも慶長2年(1597年)には現在地に鎮座するものとされる。一方、境内の北約90mの地から平安時代頃と見られる経塚が発見されたことから、古代の鎮座地も現在地付近に推測する説がある。敬満神社周辺では、愛宕塚古墳(島田市指定史跡)などから成る谷口原古墳群の分布が知られる。この古墳群はかつては100基以上から成ったともいわれる古墳時代後期の古墳群であるが、当地ひいては牧之原台地は弥生時代から古墳時代前半までの遺跡・古墳がほとんど知られない地域になる。古墳群は6世紀中頃から突然築造され始めることから、考古学的にも大井川北岸(対岸)の伝統的な在地勢力とは異なる渡来系勢力の進出が想定されている。なお、遠江国蓁原郡(榛原郡に同じ)の郡衙所在地は知られていないが、敬満神社付近に推測する説がある。とあります。参考として、延喜式神名帳では遠江国で2つだけ名神大社があり、こちらの秦氏関係の敬満神社に対し、もう一社の遠江国浜名郡にあった神社である「角避比古神社(つのさくひこじんじゃ)」は、明治4年(1871年)に「角避彦神社」として国幣中社に列せられたが、論社のどれが「角避比古神社」であるかを特定することができず、結局「鎮座地不明」として社格が除かれた。角避比古神は津の幸彦の神にして湖口の開塞を知りて民の幸幅を知ります神で、水門の功徳を称え奉れる御名とする。元は浜名湖口の現在の湖西市側に鎮座していたが、明応7年(1498)8月の大地震大海粛によつて現今の今切口を生じているが、角避比古神社の社地はその時点までは存在したと思われる。このとき社地一切が失われたのではないか。この地域に以下の3社がある。①湊神社 新居町新居1788②諏訪神社 新居町新居1379③角避比古神社 新居町新居9①②を継承社とする説もあるが該当の社には伝承がない。③は不詳とあります。
社務所は閉まっていて何方も居られず御朱印は頂けませんでした。それでも手を合わせると、何となく心落ち着く神社でした。
今日おとづれて見て鳥居の左右多くの巨木が右に左にと伐採され小間切れ状態に、大木の根本から綺麗さっぱり切られ巨木の年輪がわかる状況がそこらじゅうに散見する境内に!全ての木々が枯れ果てたのか、鳥居から奥敬満神社がすっかり見通しが良くなったけど、なにがあつたのか?遠州で長い歴史を持つ神社の境内が!でも新しい時代になって生まれ変わるためのことであるならいいのだが。参拝の後、何故か後ろ髪が引かれる想いが心残りで後にする。
祭神は敬満神(きょうまんしん)創建は第十一代垂仁天皇26年といわれます。平安時代の仁寿3年(853年)に「敬満神霊」が鎮座が名神(古く由緒正しい霊験あらたかな神社)となり、貞観2年(860年)に「敬満神」の神階が上がり、現在も遠江国一宮として知られる小国神社を上回ったといいます。戦国時代の掛川藩主山内一豊公や江戸幕府からも寄進があったといいますが、戦後の社格制度の変更のためによってか、今では小国神社と比較すると寂れてしまっていますが非常に歴史のある神社です。祭神の敬満神は江戸時代後期の国学者伴信友(1773〜1846)によると秦氏の祖『功満王』と同一されています。この王は秦の始皇帝三世孫の孝武王の子、かつ融通王(弓月君)の父とされる伝承上の人物です。仲哀天皇8年に渡来したという。『続日本後紀』に遠江国蓁原郡にいたという「秦黒成」の存在から、この地に居住した渡来系の秦氏がその氏神を祀ったとされるという考えなようです。神社周辺には、100基以上から成ったという古墳時代後期(6世紀中頃)の谷口原古墳群があり、考古学的にも大井川対岸の伝統的な在地勢力とは異なる渡来系勢力の進出が想定されているといいます。付近には敬満神を祭神とする神社が三社あるといいます。
現在の佇まいから比すれば、古代より異様に社格の高い神社。初倉には秦氏の移住があったとされるが、その事が関係しているのかもしれない。
なぜこの地に、もと延喜式名神大社、国幣大社が?しかも神格が小國神社より高かった?一説によると、主祭神の「敬満神」は秦氏の祖先・功満王とのこととか。大井川の治水工事に携わった秦氏の功績を讃え、その子孫が創建したのではないかとも言われている。秦氏の本拠地は京都太秦、その近くを流れる桂川に架かる渡月橋上流を大堰川(おおいがわ)と呼ぶが、そこからとって大井川としたのかもしれない。そういえば、かつて大井川以西の広い範囲が榛原郡(はいばらぐん)と呼ばれていたし、ギネス認定された世界最長の木造歩道橋・蓬莱橋のたもとは「島田市宝来町」、上流には大井川鉄道駅に「福用」があるが、これも秦忌寸福代に由来しているとされる。その他、三河、遠州、駿河にも秦氏の痕跡が数多く残されている。現在は寂れた感もあるが、この様な神社が残されてきたこと事体が敬意に値する。
延喜式式内社です。少彦名命をお祀りしています。島田、蓬莱橋の駐車場に車をとめて、橋をわたりお参りしました。後、大楠神社を周り、南の橋を渡って駐車場に戻りました。
| 名前 |
敬満神社(名神大社) |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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名神社としてかなり古い由緒を持ち、国幣社となっていたこともありましたが、戦後は国の管理から外れてひっそりとしています。御祭神は産土神の敬満神。江戸時代の国学者・伴信友の唱えた説では、秦氏の遠祖にあたる「功満王(こうまんおう)」であるとされています。なかなかに深い歴史を持つ古社です。参道の石畳が趣深く、この日は空の様子も素晴らしかったので、素敵な写真が撮れました。