武相卯歳観音ご開帳の時は中の観音様を拝見できた。
お墓参りに伺いますが、ごみが持ち帰りなのが大変です。
お布施代などはお気持ちではなく金額を明示してくれるのでありがたいです。
相模原にある龍伝説が伝わるお寺さんです。
龍像寺所在地神奈川県相模原市中央区東淵野辺3-25-1山号淵源山宗派曹洞宗本尊釈迦如来創建年暦応年間(1338年 - 1342年)開基淵辺義博(淵野辺城🏯)武相卯歳観音霊場四十八ヶ所48番。
山門を入り、本堂左手の山の途中に観音堂があり、武相卯歳観音ご開帳の時は中の観音様を拝見できた。
堂の周りにお釈迦様の一生の石彫がたくさんあり、その上には菩薩石像群もあり、この山は近年整備されたようでまだとても新しい。
境内は全体的にとてもきれい。
お手洗いが清潔で、霊場巡りしている身には大変うれしくありがたい。
Google mapで古淵駅からのルートを検索すると、コンビニの次の角を左折しお寺の敷地の南東の角を目的地にされてしまう。
山門は北西方向なので、その角では曲がらずに坂を下り、森の終わりの左手に石碑のある角を左折すると山門へ着ける。
なお、南東角に着いてしまったらその先の墓地が終わるあたりに裏の出入口があり、そこから入ると観音堂の上の菩薩石像群に着く。
地元では由緒あるお寺です。
お線香は玄関横の箱にあるので購入出来ますが、お花はありませんので別に用意をした方が良い。
和尚さんはおおらか、奥様はいつもちゃんと名前を覚えていてくださり、やさしく対応してくださる。
境川沿いにある曹洞宗の寺院です。
『風土記稿』によると、「広沢寺」(厚木市七沢)の末寺で、山号を浄源山(じょうげんざん)、現在は淵源山(えんげんざん)といい、釈迦如来を本尊としています。
開山は「広沢寺」2世の巨海(こかい)で、6世萬州(ばんしゅう)の時に再建され、慶安元年(西暦1648年)に12石の朱印地を賜っています。
寺伝によると、淵辺伊賀守が毒蛇(龍)を退治し、その蛇身を祀って龍頭・龍像・龍尾の3寺を建立したとされています。
後に3寺とも廃寺となり、唯一再建されたのが当寺であります。
ちなみに龍の骨片と矢じりと伝えられるものが寺宝として保管されています。
当寺の墓地には、江戸時代に当地を所領していた旗本岡野氏歴代のあり、明治時代、本寺でも寺子屋を継いで「淵博学舎」(えんはくがくしゃ)が開かれ、最初の教鞭をとったのは岡野氏の末裔にあたる18世初白(しょはく)でした。
とても静かで落ち着いた感じのするお寺で 仏陀の生涯を石で彫って表現している絵がとても好きです。
ただトイレがいつも鍵がかかっていて使えません。
古道の雰囲気が漂う街道にある立派なお寺さんです。
お墓参りに行く時には、車を停めるまで緊張します。
対向車が来ないことを祈りつつ🤞
法事をしていただきました。
御住職とても優しくて素敵です。
「淵野邊の里は淵邊伊賀守が住めりし所にて、いま龍像寺といふに古き伝へなど残れりといへり。
この村の村長天野平左衛門が物語に、いにしへは龍頭、龍像、龍尾とて三の寺ありしが、今は龍像寺のみ残れりといへり。
これ旧本今昔物語十三の巻第三十話の、大和の龍心寺、龍天寺、龍王寺のいはれに似たることなり。
」小山田与清著 安西勝校訂「筑井紀行」町田市立図書館発行p39
境川の龍(大蛇)を淵辺義博が切った事に由来する寺。
菩提寺です。
落ち着けます。
相模原市指定有形文化財で有り、南北朝時代、地頭の役職・淵辺義博(ふちべよしひろ)によって寺院開基となり、七沢弘沢寺2世巨海(弘治3年1557年寂)が開山した寺院で、淵野辺城主淵野義博にまつわる伝承として、境川沿いにあった龍池に住み人々を困らせていた大蛇を地頭の淵辺義博が矢を放って退治し、頭、胴、尾の三つに分けてそれぞれ葬り、頭は龍頭寺、胴は龍像寺、尾は龍尾寺として三つの寺を建立したが後に二寺は廃寺となり、龍像寺が弘治二年(1556年)再興された今に至っている、また、小田原北条氏の評定衆(ひょうじょうしゅう)板部岡融成(いたべおかとおなり)北条氏滅亡後は岡野と姓を改め、豊臣・徳川両氏に仕えた江戸時代の淵野辺村領主、旗本の岡野氏一族の墓地でも有ります!
でかい。
寺。
感じいいよ、駐車場あり。
資金力がある感じですね。
曹洞宗の寺。
2017年1月現在、改装中。
名前 |
龍像寺 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
042-752-2366 |
住所 |
〒252-0203 神奈川県相模原市中央区東淵野辺3丁目25−1 |
関連サイト | |
評価 |
3.9 |
南北朝時代頃からの歴史や伝説の多い曹洞宗の美しい古刹で、境内(墓地)は広大。
武相卯年観音霊場48番で、境内の中程に観音堂があります。
◎ 伝説によると中世の地頭⋅淵辺義博が龍像寺付近の境川(龍池?)に住む龍(大蛇?)を退治した時、頭⋅胴⋅尾の3つに分散した。
胴部の龍骨はここで祀り寺宝とされているようだ。
(※ 頭は龍頭寺、尾は龍尾寺へ祀られたが廃寺となり行方不明)◎ 南北朝の初め淵辺義博は後醍醐天皇の皇子護良親王を龍像寺裏の横穴へかくまい、後に淵辺と共に奥州へ逃避した。
◎ 1617年 徳川家康公の遺骸を静岡の久能山から栃木の日光山へ改葬⋅移送の際、櫃と家臣団1300人の大行列が龍像寺坂を通過した。
◎ 子供の頃の勝海舟が父⋅小吉に連れられて旗本⋅岡野氏の墓参に来た。
◎ 江戸から明治12年迄は寺子屋~学校として提供され、和尚さんが先生になり村の教育に貢献された。
◎ 東端の龍像寺坂で複数の石碑ある丁字路交差点はかつて表参道入口の山門があった所で、現在の山門付近までを後に市へ譲り公道となった。